前回のエントリー(布施について 第四回)で、僧侶が行う読経や儀式、お説教などは修行のひとつであって、対価が発生する「仕事」ではないと書きました。ですから、お布施は仏様へのお供えであり、お寺を維持していこうとするサポートの気持ちを形にしたものです。お布施の多寡は僧侶としての私に対する評価とは本来全く別物なのです。
でも、僧侶に対する個人評価というのも、たまには良いかと思うこともあります。ある宗派では、僧侶によるお説教を非常に重視しています。説教の腕をみがこうという僧侶は、最初のお寺へ行く旅費だけを持って修行の旅にでます。最初の寺でお説教をして、その後で聴衆にザルを回して報謝を募ります。聴衆はそのお説教に救われ、心豊かになったと思ったら、たくさんお金を入れ、今一つだと思ったら全く入れないことも自由。その僧侶は次のお寺までの旅費ができたら移動しますが、もしお金が足りなかったら、何日でも一つの寺にとどまり、作務を手伝いながらお説教を練り直して聞いていただくのです。
こんな風に鍛えられたら、僧侶は勉強もしなければならないし、説教を聞いていただくことのコツをいやでも覚えていくでしょうね。ちょっと怖いですが、私もやってみたい気もします。
また、「このお坊さんが一生懸命に務めているお寺なら、サポートしてやろうか」という気持ちになってくだされば、お布施にも影響するのは確かでしょうから、やはり私も誠実に務めていかなければなりませんね。さて、今日はなまけていた本堂のお掃除から始めましょうか。
・今日の写真はフィンランドの国立博物館でみた中世のトンボ玉の腕輪です。どんな人々の腕を飾ってきたのでしょうか・・・僧侶にとって唯一の「装飾品」的なものがお数珠です。なぜか慈雲寺には先代様が使っていたと思われる数珠がほとんどありません。一つの数珠を大事に使っていらしたのかもしれませんが・・・不思議です。