先日、知人のAさんが慈雲寺を訪ねて下さいました。Aさんは、最近、祖父を見送り、もうすぐ四十九日の法要を予定しているとのことでした。Aさんのご両親はすでに亡くなられているので、A家の仏壇とお墓の御守はAさんが行っていくことになります。
そのこと自体は以前から覚悟していたことなのですが、困っているのはこれから始まる「お寺とのお付き合い」です。お祖父さまは、菩提寺の総代なども務め、お施餓鬼など、お寺の行事の時は積極的に協力していたようです。もちろん、お寺の修理などの時も協力を惜しまなかったそうです。
しかし、Aさんはどうしても、お祖父さまと同じような「お付き合い」をする気にはなれないとのことでした。きっかけになったのは、お通夜の時のお説教です。Aさんに言わせると、表面的であまりにも貧弱な内容だったので、がっかりしたのだそうです。
また、葬儀のお布施の件でも不満が残ったとか・・・この点については詳しく聞かなかったので、「不満」の内容については詳しくはわかりませんが、金額を提示したときの御住職の態度がAさんには「納得しがたい」ものだったようです。
Aさんは、すぐに檀家を離れることは考えていないそうですが、「今後はお寺のお手伝いに積極的になる気はない」と断言。いったいお葬式で何があったのか・・・・
このAさんの体験は、私にとってさまざまに考えるきっかけとなりました。
まず、葬儀における僧侶の「態度」の問題です。葬儀は住職にとって、非常に重要な「役割」です。それだけに、精神的にも肉体的にも、時間などの「手間」の問題など、僧侶には大きな負担になります。年に数回しかお葬儀を頼まれないお寺なら、ひとつひとつ丁寧に係ることができるかもしれませんが、檀家数が多く、次々と葬儀の依頼のあるお寺では、僧侶が悪い意味で「工夫」してしまうことがあるようです。
妙に「手早い」儀式や読経の進め方、どの葬儀でも同じ、聞く人の心に届かないお説教、流れ作業を「こなしている」という印象を受けてしまう葬儀は確かにあるようです。残された家族は、それでなくとも、心身ともに哀しみに打ちひしがれており、自分の感情を防御する余裕がないことが多いので、僧侶の態度や言葉にがっかりしてしまうことが多いのかもしれません。
Aさんの言葉に、私も反省することしきりでした。(つづく)
◎Aさんとの会話がきっかけというわけではありませんが、10月8日に名鉄鳴海駅前の鳴海中日文化センターで始まる秋期の「尼僧と学ぶやさしい仏教入門講座」では、お寺とのお付き合いの仕方や、葬儀、お墓などについてもお話しようと思っています。