慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

5月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」5月26日10時より行います。テーマは「御祈祷、お守り、お札とは何か」です。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

お寺とのおつきあいの仕方は? Part2

 葬儀の時の経験から、菩提寺との「おつきあい」の仕方を考え直したいと友人が相談に来たお話の続きです。

 近親者の死という深い悲しみの中では、私たちは心身共に、非常にセンシティブな状況になっていると思います。そんな時の経験は、心に深い印象を刻みます。感動をおぼえることもあるでしょうし、反対に怒りや落胆の気持ちが消えにくいということも考えられます。

 そんな「常ならぬ」状況の時に感じたことをもとに行動してしまうことは、多くの場合「妥当な判断」とはならないものです。

 菩提寺の現住職にがっかりした・・・という友人の感想は簡単には払拭できないかもしれません。しかし、菩提寺とのおつきあいをいきなり変えるというのはどうでしょうか?

 その菩提寺は、友人の家、先祖代々が護ってきたという歴史の重みがあるからです。

その和尚さんにしても、今後修行が進んで人間性も、檀家への態度も変わるかもしれないし、お葬式の法話などにも大きな変化が出る可能性があるからです。

 

 友人からの相談に私がお話したのは、「様子を見る」です。家族とのわかれという「非日常」の状況が落ち着いてきたら、自分の気持ち、和尚さまへの見方も落ち着いてくるかもしれません。

 できれば、中陰のお参りをお願いして、毎週和尚さんとお会いする機会を設けるのも一つの手です。和尚さんのお人柄に触れる機会を増やすのです。葬儀の時に受けた印象と変わってくる可能性もあります。

 また、四十九日の法要の時のお説教にも注目しましょう。

 

 私は初七日の法要の時の法話と四十九日の法要の後の法話をとても大切に思っています。この二つの法要は「仏教と出会う」「仏教と縁を深める」とても重要な機会だと思うからです。

 今は、初七日の法要を葬儀と同じ日に行ってしまうのが「普通」になってきています。しかし、私はやはり亡くなってから7日目に行うとは良いのではと思っています。 葬儀と火葬でくたびれ果てている家族に、初七日法要と初七日の食事の接待が加わるのはかなりの負担だと思うからです。

 僧侶の方も、遺族の状態をおもんばかるからこそ、初七日の法要が手短なものになってしまいがちなのではないでしょうか?

 もちろん、遠方から集まる親族に、一週間たらずの間にまた来てくれというは難しいかもしれませんが・・・・

 

 コロナ禍以来、「家族葬」という名の簡略な葬儀が「普通」になりつつあります。しかし、さまざまな意味でこの簡略化には問題が出てくるのではないかと考えています。遺族や友人、知人たちの悲しみを癒やし、仏教との縁を深めるきっかけとしての葬儀の役割をどう維持していくのか、これは僧侶にとって大きな問題です。

 檀那寺と檀家の関係も、大きな変化が続いています。これは檀家の方々の問題というより、お寺側、僧侶の側の問題意識が鍵となるでしょう。

 友人の相談をきっかけに、ここ数日、あれこれと考えています。

 

 今日から鳴海の中日分かセンターで「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」の秋期が始まります。偶然なのですが、今回の講義のテーマと友人の相談とが深い関係にあることに気がつきました。講義の準備をしながら、いろいろな点で考えてしまったわけです。

 仏教は行動の宗教です。考えるだけでなく、しっかり行動に移さなければいけないと自戒しています。