慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

カナダに残務整理に行ってきました Part2

 私の住んでいたマンションのベランダからの眺めです。

 

 カナダに住んで40年。突然、日本に帰国することになって大慌てで名古屋に赴任してから、そろそろ10年になろうとしています。カナダに山ほどしなければならない事務的なことがあるのに、現実を直視したくなくて放置していたのですが、それも無理な状態になっていました。

 「面倒くさい!」

 一言で言うとこれが最大に理由だと自分では思っていました。10年間、「ああ、さっさと整理しておけばよかった」と後悔したことはないですし・・・・いや、いろいろなことを知人や友人に頼んで(というか、押し付けて)来たので、それに対する罪悪感は積み重なっていたのですが・・・前回も書いたように、本当の理由を直視するのを避けていたので、心が必要以上に重く、カナダのことを考えるたけで鬱状態に落ち込むほどでした。

 その、本当に「直視すべきこと」とは、「カナダに残り、カナダ国籍を取って暮らした方が、私は幸せだったのでは?」と思ってしまうかもしれないという恐れでした。

 カナダに戻り、友人、知人、仕事上の仲間に会ったりしたら、彼らと私の10年を比べてしまうかも?この10年の自分の人生、生き方そのものに疑問を持ってしまうかも・・・という恐れでした。

 これはもちろん、『般若心経』に示されたような「顛倒夢想」です。「ここ10年カナダで生きた私」などというものは存在しないのですから、ありもしないものと私の慈雲寺での10年を比べてみても何の意味もないはずです。

 しかし、この無意味なことに怯えるのが私の弱さであり、凡夫の愚かさです。

 そう思ってしまうかもしれない自分・・・という愚かな夢想に振り回されて鬱々としていた私・・・それを直視するのは僧侶としてあまりに情けないというわけです。

 

 しかし、結果からいうと、私は一ミリも後悔の気持ちはおきませんでした。恐れていた気持ちにはならなかったのです。

 友人、知人、仕事仲間に会って、たくさん話をして、私がカナダで本当に幸せだったのだと改めて思いました。もちろん時には、泥沼にどっぷり落ち込んだようなときもありましたが、沼から抜け出てみたら、手にきれいな真珠を握っていた・・・というような時が何度もあったことを思い出したのです。

 しかし、慈雲寺に移ってからの日々と比べて、「カナダ暮らしを手放したのは惜しい」と思うようなことはありませんでした。私にとって、慈雲寺での暮らしが、楽しく、好奇心を刺激される日々・・・充実した日々であることに改めて気が付いたと言ってよいでしょう。

 私を僧侶にしてくれた橋本随暢上人、「阿弥陀様におまかせしとったらええんや。阿弥陀様が良いようにお手配してくれる」といつも言っておいででした。まさに、私の10年は阿弥陀仏のお手配の中にあったようです。