上の絵は、ネットからお借りした一遍上人のお姿です。手に持っている札は、Part2に掲載した賦算のための札です。
一遍は、「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と木版印刷された札を配って極楽往生を保証し、布教を続けていました。
文永11年、一遍たちは熊野の本宮を目指して進んでいました。その遊行の途中、熊野の山中で律宗の僧侶に出会いました。
一遍はいつもの通り、「一念の信を起こして、南無阿弥陀仏を称え、この札を受けてください。」と言いながら札を差し出しました。しかし、律宗の僧侶は「あなたと違う教えを奉じている。阿弥陀仏への信仰がないので受け取れない。」と拒絶しました。一遍は、「縁なき衆生は度し難し」と突き放してよいのか、深く思い悩みます。とうとう一遍は熊野本宮に参篭し、熊野権現(阿弥陀仏の化身と信じられていた)の導きを願いました。
すると権現が現れ「法蔵菩薩が阿弥陀仏になったときから、一切衆生の往生は決定(けつじょう)しているのだから、信不信、浄不浄をとわず、その札をくばりなさい」と一遍に告げたのです。
このお話は、一遍上人の絵伝のハイライトの一つです。一遍上人の信仰の特徴を表すものとして知られています。
しかし、その思想の根源に流れている、「阿弥陀仏の出現と衆生の往生は切り離せるものではない」という教えは、法然から證空へ伝えられた教えに他なりません。
阿弥陀仏は、法蔵菩薩の時に「すべての衆生を極楽へ迎え取る。それが成就されなければ仏にならない」と誓って修行を続けたのです。法蔵菩薩が阿弥陀仏になられているということは、その誓いが完成されているということです。
衆生の極楽往生は、阿弥陀仏の一人働き。念仏の数や、信じるかどうかは、問題ではないのです。
證空は「疑うのは凡夫の本性だ」と説いています。不信の気持ちが起きたら救われないのなら、私たち凡夫の多くは救いから零れ落ちてしまうでしょう。
では往生が決定しているのに、なぜ私たちは輪廻を繰り返し、生きる苦しみを何度も繰り返してきたのでしょうか?(つづく)