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すべてのいきものは、一つの生を終えると、次の生に向けて「輪廻」していくという考え方は、お釈迦さまが生きておいでの時代のインドでは当然のこととして受け入れられていました。仏教も「輪廻」という考え方を受け入れていますが、バラモン教やヒンドゥー教のように、「我」(アートマン)を認めないので、いったい「何」が輪廻していくのか、輪廻の主体は何なのかという議論は、初期の仏教教団の僧侶たちから、現在の我々まで止まることなく続けられてきました。
それを「阿頼耶識」といったり、仮にという前提付きで「魂」といったりして説明されてきました。
浄土教では、唯識という仏教哲学を奉じる人々のように、「輪廻の主体」について延々と議論したりはしませんが、「どうでも良い」と思っているわけではありません。わかりやすく説明する方便として「たましい」とい言葉を使う僧侶は多いと思います。
ところで、私が以前から気になっていることがあります。それは、法蔵菩薩が、すべての衆生を極楽に迎え取ることを志し、修行に入るにあたって立てた誓願の一つのことです。
法蔵菩薩は四十八の誓願を立て、この誓願がすべて成就できなければ、私は仏にならないと言って修行に入ります。最も有名なのは、第十八願の「念仏往生の願」ですが、他の誓願も一つ一つがとても興味深いものです。
私が修行僧の時代から気になっているのが、5番目から10番目までの願で、極楽に迎え取られた衆生がかならず得ることができる六つの神通力のことについて誓われたものです。
第五願は「宿命智通の願」と呼ばれるもので、阿弥陀仏に出会い、極楽に迎え取られた衆生は、過去から未来にわたって、自分の定め、運命、輪廻の記憶などをすべて持つことができるのだそうです。何千回、何万回生まれ変わって輪廻し続けても、そのすべてを記憶している神通力を持つことができるのだそうです。
阿弥陀仏が法蔵菩薩としてたてた約束、誓いはすべて成就されています。成就されているからこそ阿弥陀仏が出現したのですから・・・衆生の往生と弥陀の正覚は同時に発生しているというのが法然上人から證空上人に伝えられた教えの基盤です。
う~~~ん・・・すべてを記憶しているのは誰?ある鎮西派の方の解説には「過去・現在・未来にわたる自分の出来事を知る」智慧とありますが・・・・「自分」というところが謎です。私は「自分」を維持したままお浄土に行けるのかなぁ・・・
「輪廻の主体」について考えるのは、数日ではすみそうにありません。
◎今日の写真は名古屋のある神社の生垣。かわいらしいミカンがたくさんなっていました。
◎前回ご報告したトラ猫。昨日も今日も姿を見せません。どうしたのでしょう?私の条件が厳しすぎたか?ネズミの用心棒は嫌か?
ところで、猫を話題にしたせいか、昨日はいつもの2.5倍ものアクセスがありました。トラ猫で検索すると引っかかったのか?不思議。