しばらくブログを更新できなかったのですが、体調はまあまあ(少々喘息気味)です。心配してご連絡をくださった方が数名・・・申し訳ありませんでした。
さて、更新できなかった主な理由は怠け心なのですが、「尼僧志願を受ける側の事情」について書こうと思うと、いろいろと内心忸怩たるものが多すぎて言葉にしにくいというところがありました。
「その1」でも書きましたが、出家を望む方々を受け入れる側には、それぞれの僧侶、寺院、宗派で事情が異なるので、一般論を書くのは難しいことです。
慈雲寺の事情をお話するしかないのですが、私のような拙い・・・僧侶としてはほぼ失格の者から事情を聞いても・・・という思いが強いのです。
しかし、自分の反省も含めて書いていきましょう。
2)師僧の資質、力量の問題
尼僧を志願する方を受け入れる側の事情で、最も重要なのは、「師となる僧侶の資質・力量」でしょう。一人の人間を僧侶として育てていくのですから、師僧に実力がないと、弟子の成長は当然難しくなります。弟子の資質を見抜き、足りないところを補って育て、優れた所をより伸ばしていく力が師僧に求められているのです。
師僧に全ての力があるわけではないですから、昔から自分の弟子を別なお寺や本山に修行に出すというのは普通に行われていました。今でも、「随身」と呼ばれる制度があって、本山で数年もしくはそれ以上の年月「小僧」として生活する人は少なくありません。
尼僧の場合もかつては、尼僧道場のような寄宿舎付きの学校のようなものがあって、そこで修行する女性がたくさんいました。しかし、今は尼僧を志す人が少なくなって、尼僧道場や女性の出家のための専門教育機関のある宗派はほとんどありません。
私の属する浄土宗西山派(西山浄土宗)でも、男性は本山に随身し、境内にある短大で仏教学を学び、二年たつと一応一人前の僧侶として独り立ちできるようなシステムがありますが、女性にはその道は開かれていません。
曹洞宗など、まだ尼僧道場が残っている宗派もありますが、今後どうなるかは難しい状況です。
私を僧侶にしてくれた最初の師である橋本随暢上人は、西山派屈指の説教師であり、20名以上の弟子を受け入れた方です。しかし、随暢上人に私に対する基本的な姿勢は「自分で学んでいきなさい」という放牧方式でした。
衣やお経巻など、僧侶として必要な用具については惜しみなく与えて下さり、一言も恩着せがましいことをおっしゃらない方でした。
師僧の説教師としてのたぐい稀な才能を心から尊敬していた私は、お説教のことばかりに夢中になり、儀式について学ぶことをすっかりおろそかにしていました。
このことが、住職になってから、そしていよいよ私も弟子を育てていかなければならなくなって、重くのしかかっているのが現状です(つづく)