いつも、なかなか手厳しいパンチを繰り出してくるももはなさんが、コメント欄に質問を書いて下さいました。
「因果と応報は別なのですか?」
え??「因果応報」はいつでもワンセットで語られる仏教用語です。別というのは、どういう意味なのでしょうか?質問に質問で返すのは愚かなことですが、一応うかがってみました。
お返事はまだですが、「因果応報」について一般的な説明をまず書いてみます。
「因果」とは、すべての現象、できごとなどには、必ず原因があるいう教えです。結果には原因が必ずあるのです。例えば花が咲くには、かならず種や球根といった原因がある。
そして仏教では、善い行いには善い結果、悪い行いには悪い結果が生まれると教えています。これが「応報」。行為に応じて結果(報い)が変わる。
これを善因善果・悪因悪果といいます。
そして、善なる行いを続ければ、それが「くせ」のように身につき・・・「善業」になっていくのです。
悪も同じ。小さな嘘でも、それを続けるうちに悪が癖になり、その人をがんじがらめにする「悪業」へと進んでいくのです。
ですから、日常の細やかな行動でも、常に「善いことをする、悪いことをしない、人のためにできることをさせてもらう」ことを心がけることによって、苦しみの少ない穏やかは暮らしが生まれていくのです。
仏教は、他人や時代、環境などのせいにせず、自分の行いの結果は自分で引き受けるという勇気と力を養う教えでもあります。
しかし、どんな種でも、机の上に置いておくだけでは花は咲きません。土や水、太陽など、さまざまな要素が積み重ならなければ結果にはなりません。同じアジサイでも、土の酸性度が違えば花の色も変わってくるのです。これが「縁」です。すべてのものはさまざまな縁によって変化してきます。
ですから、結果は同じようには出ないし、すぐに結果が出ることもあれば、時間がかかることもある。しかし、長い目で見れば、結局、悪因悪果、善因善果になっていくのです。