「因果」と「応報」は、いつもワンセットで語られる言葉です。あらゆる現象、できごとには原因があり、それに応じた結果が現れる・・・というのが一般的な説明です。
仏教は、私たちの人生を含め、あらゆる「生」は苦に満ちている。それには原因があり、さまざまな条件(縁)によって、さまざまな形で苦が現れてくる。なかでも、「生老病死」の四苦は、避けようのない苦しみと教えています。
こう書くと、仏教はなんだかとても悲観的な宗教のようですが、そうではありません。むしろ、この苦しみの原因を見つめ、誰のせいにもせずに自分で引き受けていく智慧と勇気を養う教えです。
しかし、「自分の人生を自分で引き受ける」と言っても、なかなか納得いかないこととが多いですよね。「あんなに悪いことばかりしている奴が、栄華を極めているのはなぜ?」とか、「私はコツコツ努力を重ね、良いことをしているのに、なぜ次々と不幸になるのか?」、「地震や台風の被害まで応報なのか?」などなど、疑問は次々沸いてきますね。
キリスト教などでは、なにか大きな問題や「不幸」が起きたとき、「これは神様がお与えになった試練。そして、神様はあなたが乗り来れられないような試練はお与えにならない。」と説明することがよくあります。
カナダで暮らしていたころ、葬儀などで行われる神父や牧師の説教の中で何度か「神からの試練」という言葉が出てきて、いろいろ疑問になったことがあります。この言葉で、近親者を亡くした人の心が慰められるのでしょうか?
仏教でも、「応報」の説明には苦慮してきたようで、原因と縁に応じた「報い」は、すぐに出てくる場合だけではないと説明しています。
過去に繰り返してきた輪廻の中で積み重なってきた「業」も影響するので、応報はいつ起こるかわからない・・・・
しかし、必ずすぐにおきる「応報」もあります。お釈迦さまは『ダンマパタ』という経典の中で
「やったあとで後悔して泣くような行為は善ではなく、
やったあとで喜びが生じ、心が満ち足りるような行為が善なのです。」
と教えています。このような善い行いの「応報」はすぐにやってきます。そして、この「心が満ち足りる」という行いは、自己中心的なものでなく、他の人のためになる行為、「利他」の行いによって生まれるのです。