慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

中日文化センター(鳴海)で講演させていただくことになりました

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早咲きの桜です。今年最初の桜のお花見

中日文化センターは中日新聞系列のカルチャーセンターです。栄の本校の他、各地にサテライト教室があります。名鉄の鳴海駅前にある鳴海中日文化センターで、「講演をしないか」というお誘いをいただきました。

 私はどこでも、どんな機会でも、仏教のお話をさせて下さるというなら、喜んで出かけて行くつもりですから、このお誘いも即答でお引き受けしました。

 3月28日の日曜日、午後1時半から3時までの予定です。

 タイトルは「尼僧と考える本当の『終活』」です。

  私は、日本に戻ってから「◎◎活」という言葉に注目していました。私が知っているのは「就活」ぐらいだったのですが、「婚活」「妊活」そして「終活」・・・なかなか興味深い言葉使いです。

 とりわけ「終活」には興味があって、どのような活動、準備が「終活」にあたるのかと思っていたのですが、目にするのは「お値打ちな葬儀を見つけて、事前予約する」とか「遺産相続が『争続』にならないような準備」といったことばかりでした。

 自分の人生を振り返り、この世での最後の瞬間まで十分に生きるための智慧と勇気を育むのが終活ではないのでしょうか?

 仏教から見た終活とは何かというお話をさせていただこうと思っています。

 申し込み、問い合わせはフリーダイヤル0120-538-763へどうぞ。

「安心起行」と「人事を尽くして天命を待つ」

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上野の寛永寺周辺で見た梅です

 数年前に上野の国立博物館へ行った後、寛永寺の周辺をぶらぶらしていた時に見た梅です。慈雲寺の梅も少しずつ笑い始めてくれています。

 

 さて、一カ月以上前にコロナ禍の中での暮らし方について、「落ち着いて、今自分にできることを精一杯やったら、あとは阿弥陀様のおまかせ」ということを書いたところ、いつもこのブログにするどいコメントを下さるももはなさんから、「人事を尽くして天命を待つ」ということか?というご質問をいただきました。

 これはとても興味深いことで、「阿弥陀様におまかせ」というのと、「天命にゆだねる」は同じなのか?と改めて考えてみました。

 慈雲寺の属する、浄土宗西山派西山浄土宗)の教えでは、「安心の上の起行」という教えを大事にします。「安心」は「あんじん」と読みます。

 

 さて、「人事を尽くして・・・」は、南宋の時代の儒学者胡寅の『読史管見』に出てくる言葉で、「人事を尽くして天命に聴(まか)す」とあるのに基づいているそうです。

 全力を掛けて努力したら、その結果、事が成就するかどうかは天命次第ということでしょう。同じ行為、努力をしても、時が至らない、天命に沿わない場合は、失敗することも、成就しないこともある・・・・成果が出れば、天命に従っている証拠というでしょうか?

 だとすると、「安心」とは根本的に違います。浄土教の教えでは、阿弥陀仏は一切の条件や制約を付けず、全ての衆生を極楽に迎え取ると誓って修行に入り、その誓い(誓願)が全て成就したので、今、阿弥陀仏になっておられるのです。このことを知らせてもらって、「ああ、そうだったのか!私は阿弥陀仏に願われている身の上だったのか」と気が付いた時、嬉しさのあまり口からこぼれ出るのがお念仏だと證空上人は教えています。この喜びの念仏がこぼれおち、極楽往生が確実であることを領解(りょうげ)したときの、生きることの根本にかかわる深い、大きな安らぎが「安心」(あんじん)なのです。

 この安らぎを基盤にした暮らしは、人間にとって避けることのできない生老病死の「苦」に正面から向き合う勇気となり、今日を生きる喜びを十分に味わうことができるのです。極楽での修行を今すぐ、この世にあるうちに少しでもしようというのが、「起行」です。極楽へ行かせてもらうために功徳を積むための行ではないというところが肝心です。極楽往生はもうすでに成就されているのですから・・・

 この世での「成功」や「成就」がなければ「天命」の可否を判断できないという生き方ではないのです。

 

 人事を尽くして・・・は一種の成果主義かも?興味深いのは、キリスト教プロテスタントの教派の中にも成果主義を強調するものがあります。勤勉であることが、神に仕える者の義務であり、神がその行為を愛でれば成果が出るはずというのです。そんなに単純な教えではないでしょうが・・・

 

 極楽往生という最高の成果(?)がすでに成就されている私たちは、この世での成果や成功は、得てして次の煩悩を呼び、苦しみのもとであることを忘れずに、のんびりと生きてまいりましょう。

 

 

 

 

 

このブログの目的 Part 2  尼僧志願の方を受ける側の事情 その4-2

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有松の旧東海道にある小路。江戸時代にそのままタイムスリップできそうな気がします。

 

 尼僧を志して下さる方に参考になればと思い書き始めた「このブログの目的」ですが、かなり長くなってしまったので、今回が最終回。また別の機会に、角度を変えてお話することもあるだろうと思いますが...............

 

 さて、最後は「こんな方に弟子に来ていただけたらありがたい!」という私の勝手な都合を書かせて下さい。

 前回に書きましたが、私が弟子に望むのは、「仏教徒として生きていきたい。仏の教えを学びたい」という気持ちだけです。それ以外のことは、すべておまけ・・・

 おまけですから、あれば嬉しいけれど、なくても良いことばかりです。

1)私より優れた人に出会いたい!

私はライターの仕事をするうちに、たくさんの優れた人に会う機会がありました。アメリカの国務長官マイクロソフト社の重役など、世間的な「大物」だけではなく、地元の歴史をコツコツと研究している郷土史家の方や、防災の知恵を磨く消防団員などの身近なヒーローたちにも会うことができました。そのおかげで、人が持っている優れた点を見つけたり、それを賞賛したりすることが素直にできるようになりました。

 私はいろいろな面で「足りない」人間です。私の足りないところで、優れた能力を持っている方が身近にいて下されば嬉しい。尊敬し、感心し、「すごいなぁ!」と驚ける人がそばにいてくれるのは、とてもありがたいことだと思うのです。

 こつこつ努力する能力、掃除や整頓が得意、事務能力がある人・・・・ああ、もうきりがないほどありますね。

 

 私が教えられることは少ないですが、手持ちのカードは惜しげなく弟子の方に提供したいと思います。

 私で教えられないことは、私の知り合いをどんどん紹介して教えていただきましょう。

 

2)自分の仕事を持っている人が望ましい

 これは純粋に慈雲寺の経済事情です。経済的に余裕のある寺院なら、お寺のことに専念してもらって、生活の場を提供し、学校の授業料、本代、衣食住+おこずかいぐらいの面倒は「まかせなさい!」と言いたいところです。これは現時点での慈雲寺の状況では難しい。でも、もちろんできるだけのことはして差し上げたいと思っていますが。

 また、自分の仕事を持って、「お金を稼ぐ」ことや「自分の力で暮らす」経験をした人は、僧侶になって布教をしたり、檀信徒を相談にのったりするときに必ず役にたつと思います。

 

3)同居や介護は望んでいません

 弟子になって、師僧に仕え、日常生活の中からさまざまな教えを受けていくというのが、伝統的な師僧と弟子の関係です。しかし、私はこの「同居&介護」で得るものよりも、失われるものの方が大きいのではないかと危惧しています。私のように、こちら側に弟子に与えるものが少なければなおのことです。

 相談相手、一緒に学ぶ仲間ぐらいの関係で、それぞれ自立した状況をキープしていった方が良いと思うし、介護をしてほしいという気持ちは全くありません。私はできれば、晩年を各地で布教をした歩く「遊行僧」としてふらふらしながら生きていきたいと思っています。

 

 う~ん・・・・なんだか都合良すぎますかね。私の弟子にならなくても、出家を考えていらっしゃる方にいろいろなお話をすることはできると思います。どうぞ遠慮なく、ご相談においで下さい。電話052-621-4045

 

 

 

このブログの目的 Part 2  尼僧志願の方を受ける側の事情 その4-1

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宇治の平等院で見た蓮の華です。寒い時は夏が少しだけ恋しい

 

 東北に強い地震があったと聞きました。東京の実家や友人たちからも、かなり揺れたという連絡をもらいました。まだ余震が続いている地域もあるとか、みなさまのご無事をお祈りしています。

 

 さて、「尼僧志願の方を受ける側」、寺院や師僧となる僧侶の側の事情について書いてきました。最後に私の事情や思いについて書いてみたいと思います。

 

 かつて證空上人が法然上人に弟子入りを願ったとき、法然上人は「私の弟子になっても、お寺もその他の物も譲り渡す相手が決まっています。貴方には何も譲ってあげられないですよ。」と言ったそうです。弟子に入るということは、寺院や書籍、衣、仏具などを将来譲られるという前提があったのでしょう。しかし證空上人は、「そんなものが欲しいのではない。私は教えを求めているのです。」と答えたそうです。

 これを聞いた法然上人はとても喜んだと伝えられています。

 最初にも書きましたように、私は弟子に教えられる知識や技術と言った面での「手持ちのカード」がとても少ない、情けない僧侶です。こんな者でも尼僧として生きていくことができる・・・と言うことを示すサンプルとして存在価値は少しはあると思うのですが、私のような者の弟子になってくれというのは申し訳ないというのが本当の所です。

 私が弟子になって下さる方にできることと言えば、一緒に仏の教えを学んで行こうという気持ちが第一でしょう。学歴は関係ありませんが、学び続ける意欲や知的好奇心が旺盛な方を歓迎したいです。中卒ならまず高校へ、また大学や大学院に行きたいなら経済的にも応援したいし、一緒に学ぶ仲間になって欲しい。

 私が弟子に求めるのは、仏教徒であること、少なくともお釈迦様の教えに興味を持ち、浄土教の教えに惹かれている人が望ましいです。それ以外のことは、二の次、三の次です。

 私は説教師として経験を積み重ねていこうとしていますから、お説教師としての基礎知識を教えることは少しできると思います。この方向に興味のある方なら、私が手渡せるものもあるかもしれません。(つづく)

 

 

 

このブログの目的 Part 2  尼僧志願の方を受ける側の事情 その3の2

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先月の雪の日、蝋梅も雪化粧をしました

 このブログは、出家を志す方を励ましたり、最初の一歩を踏み出すお手伝い、そして僧侶になるまでのプロセスで出会うかもしれない様々な問題を取り上げてみたいと思っています。

 尼僧志願の方を受け入れる側(宗門、寺院、師僧となる僧侶)の問題点を角度を変えてお話しています。

 その3は、受け入れる側の経済的な事情です。「坊主丸儲け」などという言葉がありますが、現実はそれほと気楽なものではありません。寺院のおよそ70%は、お布施などの収入だけでは寺を維持し、家族を養うことはできません。いわいる兼業です。農業から教師などまで、僧侶はさまざまな仕事をしています。現在の私も新聞記者や旅行ライター、翻訳などの仕事で食い扶持を得ています。

 前回のブログに書いたように、尼僧たちもお茶やお花の先生など、さまざまな「兼業」をしてきました。

 弟子を受け入れるということは、寺院、とりわけ尼僧寺院にとって経済的な負担の大きなことなのです。一方、寺の住職は次の世代を育て、寺を存続させていく義務があります。家族を持っている僧侶なら、子どもを跡継ぎに・・・と考える人も多いでしょう。独身が大半の尼僧たちは、弟子を育てなければ、後継者問題が大きくのしかかってくるのです。

 

◎修行と介護がワンセット?

 おそらくどこの宗派でも、尼僧寺院は後継者問題に悩まされているはずです。尼僧の多くは高齢になっても元気はつらつな人が多く、60代ではまだ若手扱い(?!)。後継者問題をつい先送りにしてしまい、心身の老化が深刻化してから、ようやく慌てだす人も少なくないようです。

 そうなると、「弟子を取る」ということが、「介護をしてくれる人を得る」と、セットになってしまいがちです。

 現在、70代、80代の尼僧の多くは、幼少のころに弟子に入り、先代、先々代の師僧に仕えて、その方々を介護し、見送ってから住職になった方。口をひらくと、つい「苦労自慢」になってしまう人も少なくありません。

 もちろん、寺院のことは師僧から弟子へと口伝や実践を通して伝えられるものが多いので、このように老尼に仕えることは、得るものも多いのは事実です。

 しかし、私は「介護とワンセットでなければ出家できない」という状況は、けして尼僧の未来にとって良い状況とは思えません。

 

◎慈雲寺に弟子に来て下さる方がいらしたら、こうしたい・・・とう私の夢については次回お話します。(つづく)

 

このブログの目的 Part 2  尼僧志願の方を受ける側の事情 その3の1

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先日、名古屋市周辺に雪が降った時、慈雲寺の庭にも少し雪が積もりました

 このブログを書く目的の一つに、出家に興味を持たれた方に参考となることや、尼僧を志す方を励ますというものがあります。

 尼僧志願の方を受ける側(お寺や師僧になる側)の事情はなかなか語られることはないようです。現在、多くの僧侶は親や親戚が師僧となって出家するので、その状況というのはなかなか外に知られることはないからです。

 

3)弟子を受ける側の経済的な事情

 一番微妙で語られにくいのは経済的なことかもしれません。

 私は自分が出家できるという喜びと、全く新しい道が開かれたことへの好奇心で、当時、全く考えもしていなかったのが、この「弟子を取る側の経済的事情」でした。私を僧侶にしてくれた最初の師僧である橋本随暢上人は、和歌山の比較的小さなお寺の住職でしたが、説教師として全国を飛びまわり、檀家だけではなく、多くの信者を得ていた方でした。そして、集まった浄財を惜しげもなく弟子を育てることに使い、20名以上の弟子を育てた方です。

 弟子を持つということは、その弟子の生活、衣などの僧侶として必要な用具、勉強のための学費などなど、それぞれにお金がかかります。私は生活費は自分で賄っていましたが、学費や僧衣などは全て随暢上人が揃えてくださいました。

 そして、上人は恩着せがましいこと、とりわけどれほどお金がかかったなどということを一言も言わない方でした。もちろん、そういうことは弟子の私の方で推測するのが当然なのですが、当時は与えられるままに、ただ感謝するだけでした・・・・私は本当に愚か者でした。

 ところが、随暢上人から、他の師僧に「師僧替え」をすると、現実にすっかり目が覚めました。新しい師僧は、「弟子を持つコスト」について、私がしっかり自覚することを求めたからです。与えられた分は、きちんと返すという、当然のことを教えてもらったことで、ぼんくらな私も目が覚めたわけです。

 さらに、慈雲寺の先代さまのところに移るときも、最初の質問は、「慈雲寺には、あなたに給料を払う余裕はない。自分の食い扶持は自分で持ってこられるか?」と聞かれました。

 実はこれも当然の質問です。尼僧寺院の多くは檀家も少なく、寺院の維持費を捻出するだけで精一杯。尼僧たちは自分の「食い扶持」は、お花やお茶を教えたりして自分で作ってきたのです。慈雲寺の先代も、裁縫教室を開いていました。

 私は旅行ライターや通訳の仕事を続けるつもりでいましたから、お寺から給料のことは実は全く考えていませんでした。必要な僧衣も全て持っていましたし・・・

 (つづく・・・次回は慈雲寺に弟子を迎えるについての私の夢をお話します)

 



このブログの目的 Part 2  尼僧志願の方を受ける側の事情 その2-2

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慈雲寺の境内にある蝋梅です。私はこの花がとても好き。これから白梅、紅梅と続いていきます。嬉しい!

 

2)-2 師僧としての力量

 弟子を受け入れるということは、私が自分の師僧から受け着いたものを次世代に受け渡すことに他なりません。本来仏教は、お釈迦様から弟子へ、そのまた弟子へと、「水をたたえた鉢から、別の鉢へ一滴もらさず注ぎ込むように」伝えられてきたものということになっています。

 う~ん・・・・私の場合は、兄弟弟子がたくさんいたので(私は師僧の13番目の弟子でした)、師僧は基本「放牧」。兄弟子に基本的なお経の読み方、声明の節、威儀作法基本を教えていただきました。また、本山に付属する短大で一年間の聴講をしたときに、基本を学んだ・・・・ことになっています。

 しかし、一年間教科書を読んだだけでは、身に着いたことはほとんどなかったと言わなければなりません。それは先生のせいでも、カリキュラムの脆弱さのためでもなく、私が自分から積極的に学ぼうとしなかったためです。

 僧侶は、法式(さまざまな儀式のやり方や作法)、教学(宗派の教え)、布教(お説教の技術や、説教の内容の教学的な裏づけ)の三方向で研鑽を積まなければならいことになっています。もちろん、それぞれの僧侶で得手不得手の分野はあるでしょうが、三つの分野でバランス良く実力を育んでいくことが求められています。

 私の最初の師僧である橋本随暢上人は説教師として卓抜した才能のある方でしたから、私も説教師(布教)に重点を置いて修行していこうと思いました。今から思えば、なんとも浅はかでした。

 良き説教師は、しっかりした教学の裏付けを築き、法式も伝統にのっとってできる人でなければ、説得力のある布教はできないからです。

 

 と、いうわけで、私は自己卑下でも謙遜でもなく、「手持ちのカード」少なすぎる僧侶です。男性ならば本山で随身(修行僧として本山に住み込み、さまざまなことを学び、実体験できるシステム)することも可能ですが、女性の弟子となると、私が伝えられるものがあまりに少ないので、いったいどうすれば・・・と、頭を抱えてしまっているのが現状です。

 師僧としての力量があまりに貧弱なので、慈雲寺に弟子を迎えるのには正直躊躇してしまいます。しかし、門戸を閉めてしまいたくもない。得度(僧侶としての第一歩)したいと願う方にはできるだけのことをして差し上げたいというのも、また正直な私の願いです(つづく)