慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は3月17日(日)10時より、お彼岸の法要も兼ねて行います。テーマは「法然上人が開いた『浄土門』とは何だったのか?その2」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

このブログの目的 Part 2  尼僧志願の方を受ける側の事情 その3の2

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先月の雪の日、蝋梅も雪化粧をしました

 このブログは、出家を志す方を励ましたり、最初の一歩を踏み出すお手伝い、そして僧侶になるまでのプロセスで出会うかもしれない様々な問題を取り上げてみたいと思っています。

 尼僧志願の方を受け入れる側(宗門、寺院、師僧となる僧侶)の問題点を角度を変えてお話しています。

 その3は、受け入れる側の経済的な事情です。「坊主丸儲け」などという言葉がありますが、現実はそれほと気楽なものではありません。寺院のおよそ70%は、お布施などの収入だけでは寺を維持し、家族を養うことはできません。いわいる兼業です。農業から教師などまで、僧侶はさまざまな仕事をしています。現在の私も新聞記者や旅行ライター、翻訳などの仕事で食い扶持を得ています。

 前回のブログに書いたように、尼僧たちもお茶やお花の先生など、さまざまな「兼業」をしてきました。

 弟子を受け入れるということは、寺院、とりわけ尼僧寺院にとって経済的な負担の大きなことなのです。一方、寺の住職は次の世代を育て、寺を存続させていく義務があります。家族を持っている僧侶なら、子どもを跡継ぎに・・・と考える人も多いでしょう。独身が大半の尼僧たちは、弟子を育てなければ、後継者問題が大きくのしかかってくるのです。

 

◎修行と介護がワンセット?

 おそらくどこの宗派でも、尼僧寺院は後継者問題に悩まされているはずです。尼僧の多くは高齢になっても元気はつらつな人が多く、60代ではまだ若手扱い(?!)。後継者問題をつい先送りにしてしまい、心身の老化が深刻化してから、ようやく慌てだす人も少なくないようです。

 そうなると、「弟子を取る」ということが、「介護をしてくれる人を得る」と、セットになってしまいがちです。

 現在、70代、80代の尼僧の多くは、幼少のころに弟子に入り、先代、先々代の師僧に仕えて、その方々を介護し、見送ってから住職になった方。口をひらくと、つい「苦労自慢」になってしまう人も少なくありません。

 もちろん、寺院のことは師僧から弟子へと口伝や実践を通して伝えられるものが多いので、このように老尼に仕えることは、得るものも多いのは事実です。

 しかし、私は「介護とワンセットでなければ出家できない」という状況は、けして尼僧の未来にとって良い状況とは思えません。

 

◎慈雲寺に弟子に来て下さる方がいらしたら、こうしたい・・・とう私の夢については次回お話します。(つづく)