昨日の「満月写経の会」は参加者三名でしたが、静かで心地よいときを過ごすことができました。月明りの下で読経するのもいいですね。
12月の「満月写経の会」は12月4日7時半より行います。どなたでもお気軽にご参加ください。
さて、月光といえば、法然房源空上人(法然上人)の詠まれたお歌に
「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」
というのがあります。一般的な解釈は「阿弥陀仏の本願(全ての衆生を救うという誓い)は、月の光のようにどこの里にも降り注がれている。しかし、月を眺めない人には月の光の存在はわからない。このように南無阿弥陀仏の念仏を称えた人だけが、極楽へ往生できるのだ」とされています。しかし、私はどうも、この説明が心にしっくりこないのです。
阿弥陀様は何の条件もつけずに、私たちの全てを救うと誓われ、その誓いが成就したからこそ、阿弥陀仏になられているのですから・・・・
念仏を称える人だけが救われる・・・う~~ん・・・念仏はたくさんした方がよいですか???
上の説明では、「キリストの愛は万人に開かれているけれど、キリストを受け入れなければ、天国へはいけない」というキリスト教の考え方とどう違うのでしょう?
たしかに、たとえ阿弥陀仏といえども、縁無き衆生はいかんともしがたい・・・今生で阿弥陀仏とのご縁が結ばれなければ、私たちはまた流転を繰り返していかなければならないのでしょう。
でも、私たちは法蔵菩薩の深いお慈悲、阿弥陀仏になられた因縁を聞かせてもらうだけで、「ああ・・・そうだったのか」と、心に本当の安堵が満ちたときに、口からこぼれ出てくるのがお念仏です。
お念仏をするから救われるのではないのです。う~ん・・・どう説明したらよいのかなぁ。
次の満月までに、法然上人の月影のお歌の、もっとわかりやすい解説に出会いたいものです。