月影のいたらぬ里は なけれども
昨夜、慈雲寺の縁側から、「満月写経の会」においで下さった方々と一緒に、美しい中秋の名月を眺めることができました。月の光が境内をすっぽりと包んでいるようでした。
冒頭にあげた和歌は、法然房源空上人(法然上人)のものです。阿弥陀仏の慈悲を月の光に譬えておいでになります。
月光(阿弥陀仏のお慈悲)は、全世界をくまなく照らしているのですが、私たちは窓も開けずに暗い部屋に籠っていたり、下を向いて歩いていて、月光に包まれていいることに気が付かないまか、「暗い、苦しい・・・」と悩んでいるのです。
しかし、阿弥陀仏が、なぜ仏になられたのかといういわれを聞き、そのお慈悲に気が付いた者は、自分が、世界が、すっぽりと月光に包まれていることをはっきりと見ることができるのです。そして月の出ていない夜でも、昼間でも、阿弥陀仏のお慈悲は心の中が柔らかに輝き続けるのです。
これが念仏者の生き方です。
すでに私たちが阿弥陀仏のお慈悲の中にいること、「南無阿弥陀仏」の念仏は、阿弥陀仏と私たちが一体になった姿であることに気が付けば、私たちはすでに救いの中にいいるのです。
私たちの極楽への往生は、法蔵菩薩が阿弥陀仏になられたときに決まっていたのだと、聞かせてもらうことが大切です。
お説教や法話の会をしてくれるお寺を探して、ぜひご縁を深めてください。