前回の記事で、自らの行動・行為で行う布施行を「身施」というと書きました。お寺でお掃除をすることから、電車の中で座席を譲ることまで、身施はさまざまな形で行うことができます。
自分のためではなく、他の人のためになることを喜んで行うなら、なんでも良いのです。しかし、どのような立派な行為も「動機」が重要で、「他人に褒められたい・・・」とか、「この行為で自分に何か有利なことが起きれば」と思ってしてはが意味がなくなるのです。
しかし、私たち凡夫は、動機が純粋でなければ駄目としていまったら、何もできなくなってしまうでしょう。動機はどうあれ、行う方が行わないより良いとすべきかもしれません。
仏教は「業」という考え方をします。「業」とは、「くせ」と特徴があります。善き行動はさらに善き行いを誘発し、やがて、良き行動が「くせ」になっていくのです。これが「業」の基本です。ですから、きっかけはどうあれ、善き行為には、善き方向性が付き、善き業につながる・・・ま、「もっと褒めて!もっと偉いと言ってくれ!」よいう欲を膨らませ続けたら、それは悪業なのでしょうが・・・
例えば、柔らかな笑顔で人の心を安らかにすること、励ますことは、もちろん身施の一つであり、善き業につながっていくのです。朝起きたら、まず家族や鏡の中の自分に向かってにっこりしてみませんか?今日も阿弥陀さまに守られ、願われて一日が始まるのですから、笑顔でスタート!
◎京都の庭園で見た美しい苔です。慈雲寺の坪庭も整備したいところです。