慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

無財の七施 Part 4 身施

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奈良の明日香地域で出会った仏様。胴体部分が失われても、
やさしげなまなざしは消えていません。

 身施は、自分の身体を動かして他の人を手助けしたり、奉仕したりする行いです。これも布施の修行の一つです。

 ほんの小さなことから始められる修行ですが、その功徳ははかり知れないとお釈迦様は説いておられます。例えば、大きな荷物を持って階段を上がろうとしている人を手助けするとかはどうでしょう?

 治安の悪いところだったら、そのまま荷物を持ち逃げされるかも?と心配になるかもしれませんが、日本はそんなことはないと信じたいところです。

 「荷物を持ちましょうか?」と言われたら、素直に「お願いします。」と受けることができる雰囲気も大事ですね。「大丈夫です!」と何回も断られると、声をかけようという気にもならなくなるでしょうから。

 とはいえ、デート中に女性の小さなバッグまで持ってあげるのがマナーみたいな国もあって、それはどうかなぁ???と思いますが。

 慈雲寺もたくさんの方々の身施で支えられています。住職は境内の景観を維持し、宗教施設にふさわしい心の安らぎを参拝者が感じられるように整えるのが大事な役割の一つです。

 身施を大切にするのは仏教だけではありません。例えば、天理教の「ひのきしん」などのように、神様への感謝をあらわすために労働をささげることが教えの基本になっている宗教はたくさんあります。

 

 僧侶ももちろん、積極的に身施をすることが「生き方」になっていかなければなりません。しかし恥ずかしいことに、私はこまめに掃除をしたり、庭の植木などの手入れをしたりするのが苦手です。嫌いというわけではないのですが、一人で黙々と作務をするのが苦手なのです。だれかが一緒に働いてくださると、私も張り切って動きます。

 「一緒に」と言っても、私は勤勉に動き回るというわけではなく、しばしば手が止まってボーっとしてしまうので、張り切ったり、ぼーっとしたり・・・あんまり役にたっていないかも???

 こんな私の状況を見かねて(?!)、身施を申し出てくださる方がいます。本当にありがたく思っております。

 知らないうちに枯れ葉がきれいになっていたり、参道の雑草が抜かれていたり・・・自分のなまけ心を指摘されているようで、恥ずかしい気持ちにもなるのですが、「慈雲寺のことを思ってくださる方がたくさんいらっしゃる」と思うと、嬉しさもいっぱいです。