慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

人身受け難し・・・・・なぜ生きるかについて考える Part3

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盛りを迎えた慈雲寺の梅。後ろに映っているのが問題の(?)松です。

 今朝、遅めのブランチを食べていたら、物凄い雷鳴!稲妻とほとんど同時でしたからごく近い。しかも、落雷の音と共に、少し家鳴りがしたような気がするほどの衝撃でした。ひょっとしたら、境内の松に落ちたかぁ?と窓から外を見たほど。

 慈雲寺の門前にある松は寛永年間に描かれた絵にも登場しているなかなかの古木。慈雲寺自体が「上の山」の中腹にあるので、この一帯では一番高い木です。落雷するとしたら、まずこの木だ!と思ったわけです。

 三回、大きな落雷の音を残して、雷は消えて行きました。私は雷は怖くありません。むしろ、砂漠や大草原、大きな湖の上に現れる稲妻の美しさには毎回感動します。

 

 さて、道元禅師の『修証義』のつづきです。Part2でお話したように、「人間に生まれることがいかに困難であり、今、人として生きることは素晴らしい機会なのだ」という考え方は、広く仏教各派に通じる教えです。

 しかし、その認識の後が大きく違います。道元さまは人間に生まれた今こそ、輪廻の中で「善生最勝の生なるべし」と書かれたのに続いて

最勝の善身を徒らにして露命を無常の風に任せること勿れ・・・・(中略)・・・造悪の者は堕ち、修善のものはのぼる

 と説き、受け難い人身を受けた今こそ、修行に励まないと「悪の報いを受ける」と強い口調で書かれています。

 これはけして脅しなどではなく、私たちを励まして下さっている言葉だと思いますが、自力の修行を続ける人たちはなかなかに大変だなぁ・・・・

 

 一方、道元禅師の兄で、徹底した他力の道に進んだ證空上人は

「ねむって一夜をあかすも報仏修徳のうちにあかし、さめて一日をくらすも弥陀内証のうちにくらす・・・(中略)・・・・はげむもよろこばし正行増進の故に、はげまざるもよろこばし正因円満の故に」『鎮勧用心』

 いったん阿弥陀仏に願われている身の上だと知ったら、はげむもよろこばし、はげまざるもよろこばしになっていくという、なんともおおらかな発想です。

 お念仏だけしていれば救われるというのではありません。すでに救われている身の上、極楽往生の決定している身の上なのだから、それだからこそ、極楽への修行の億分の一でも生きている間にしていこう。菩薩として生きていこうというお勧めです。

 「そのまま来たれ」こそが阿弥陀仏の願いなのです。

 

 受け難い人身を受けて、阿弥陀仏の願いを知ったのちは、穏やかで、本当の安心のある人生が待っています。次回は本当の「安心」についてお話します。