慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

人身受け難し・・・・・なぜ生きるかについて考える Part1

f:id:jiunji:20210304191552j:plain

中山道板橋宿の日曜寺の梅です。

 故意に集めたわけではないのですが、各月の初旬は月参りが続きます。月参りに呼んで下さるお宅のうち何軒かは曹洞宗の檀家さんなので、曹洞宗日課勤行集を読誦し、時には道元禅師の『修証義』を拝読させていただきます。

 私は道元さまの『修証義』が大好きです。以前にもお話しましたが、道元さまは、慈雲寺の属する浄土宗西山派西山浄土宗)の流祖である證空上人の兄弟です。兄弟で一人は徹底した他力の念仏、一人は自力の禅に向かったのがとても興味深い。兄弟の文章には、どこか共通点があるのかしら?と思ったりしながら『修証義』を拝読しています。

 その『修証義』の第一章に、「人身うること難し、仏法値うこと希れなり」という言葉が出てきます。

 仏教では私たちは地獄から天までの六つの世界(六道)を繰り返し輪廻していると考えています。時には地獄に落ち、時には動物として生きる、時には天人として生きることもある・・・そして今、ようやく人間界に生まれてきたのです。いったりどれほど長い間、六道を輪廻してきたのでしょう・・・

 この六道の中で、仏の教えを聞くことができるのは、人間と天人だけです。しかし、天界は居心地が良い(といっても、苦しみから逃れることはできませんが)ので、なかなか仏の教えをきく事ができない。仏法に出会うことができないのです。

 ですから、人間として生まれたというのは、仏法の出会う大きな機会を得たということに他なりません。

 せっかく人間に生まれたとしても、仏法に出会えるのは簡単ではないのです。

 道元さまは、上の文章に続いて、こう述べています。

 「今我等宿善の助くるに依りて已に受け難き人身を受けたるのみに非ず遭い難き仏法に値い奉れり、生死の中の善生最勝の生なるべし」

 テンポの良いキリリとした文章でいいですよねぇ・・・・私たちは輪廻の間に善行を積み重ねてきたので、ようやく今、受け難い人身を受けることができて、さらには仏の教えにまで出会えた。

 「最勝の生なるべし」・・・六道輪廻を繰り返した中で、ベストな状況にあるということです。

 道元さまから、こんな風に断言されると、元気が出るなぁ!でも、この分のすぐ後ろには、結構厳しいお言葉が・・・(つづく)