慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

11月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、11月21日10時より行います。テーマは「極楽のガイドブック、浄土三部経ってなんでしょう?」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

お位牌について相談を受けました Part 3

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ブッダガヤで見た壁画。お釈迦様の涅槃の様子を描いたものでしょう。

 

 お位牌について考えていたら、数年前に聞いたお説教のことを思い出しました。

 私は宗派にかかわらず、僧侶のお説教を聴く機会があれば、できるだけ参加させていただきたいと思っています。名人と言われる方のお説教はもちろんのことですが、勉強中の若い修行僧のお説教も、いろいろと学ぶところが多いのです。

 

 数年前、ある僧侶が東日本大震災のときのことを話し始めました。彼の体験ではなく、友人から聞いた話だそうです。

 地震がおき、津波の危険が迫っていると警報が出てとき、A青年は自宅に同居していた祖父母を高台の学校に連れて行きました。しかし、老人たちは「お位牌を連れてくるのを忘れた!」と慌てたそうです。Aさんは、それを聞くと急いで自宅へ戻っていきました。その直後、町は津波に飲み込まれてしまいました。

 Aさんは行方不明となり、しばらくしてからAさんが背負っていたデイバックだけが発見されました。その中にはお位牌が全部入っていたそうです。

 

 説教師の僧侶は、この話を感動的な悲劇として語り、位牌がA家に戻ったことを「仏様のご加護」と表現していました。

 この説教師はなかなか表現力もあるし、声も良く通って聞きやすいお説教でした。聞き手の人々も、涙を流している人も多く、心を揺さぶられるお説教だったようです。

 

 しかし、私は聞いているうちから「????」という疑問符で頭がいっぱいになるほどでした。命がけで位牌を護ったA青年の自己犠牲は、仏教の教えから見て賞賛されるべきことなのでしょうか?

 ジャータカ物語を読むと、お釈迦様の前世の物語の中で、空腹の動物に自らの体を犠牲にして与えるなど、自己犠牲を繰り返したことが述べられています。

 A青年の行為は大きな功徳を積む善行ととらえるべきなのでしょうか?

 

 前回もお話したように、私は、長い時代を経たお位牌が並ぶ仏壇を素晴らしいと思いますし、先祖の位牌を受け継ぐ環境で暮らせることは幸せだと思っています。しかし、それらはA青年の命を懸けるべきものだったのでしょうか?

 位牌のことを頼んだ祖父母は、孫が身代わりとなって届けてくれた位牌を前にどのような思いだったのでしょう?A青年の父母と祖父母との関係はその後どうなったのでしょう?

 知りたい「その後」が山ほどあったのですが、説教師は全くそれに触れませんでした。

 

 その説教師は、この話を通して、いったい何を伝えたかったのか?どこに仏の教えがあるのか?まだ結論が出ぬままです。