宗派によって多少の違いはあるでしょうが、僧侶の「学び」の方向は大きく三つに分かれています。一つは「法式」。宗教儀礼や儀式に関することです。もう一つは「教学」。それぞれの宗派の教えを深めること。そして最後が「説教」です。これは宗派の教えを広めていくためのものです。
本来、僧侶はこの三つの方向、全てについて常に研鑽することが求められています。しかし、それぞれの僧侶は得手不得手があるので、だいたいの人はどれか一つを選んで学びを深めていきます。
私は三つとも情けない状況ではあるのですが、いちおう「説教師」という選択をしています。最大の理由は、私を僧侶にして下さった師僧が、宗門一の説教師だったからです。特別に師僧から訓練を受けたということはないですし、私はカナダにいたので、師僧と会う機会も残念ながらとても少なかった。しかし、お会いしたときには、必ず何か気づきや教えをいただきました。このことだけでも、私は恵まれた僧侶だと思えるほどです。
説教師は、もちろん「教学」に関する知識もなくてはならないのですが、これも幸いなことに、お隣のお寺のご住職は、私たちの宗門の明日を担うと期待されている仏教学者。この方にも、お会いするたびに、私は「説教のネタ」をいただいています。
説教師にとって最も重要な研鑽はお説教をさせてもらうことです。コロナ禍で、さまざまな行事を中止するお寺が多かったので、説教師が呼ばれる機会もここ数年とても少なかったのですが、ようやくぽつぽつの変化が見えてきました。
今月は和歌山に呼んでいただいたので、今はその準備でバタバタしています。いや、「バタバタ」準備をしているようでは駄目なのですが、まだまだ未熟が説教しである私は資料をひっくり返したり、声を出して練習したりと落ち着きません。
でも、呼んでいただけたのはとても嬉しい。梅林で有名なところなので、花が咲き残っていることを祈っています。そんなこと気にしている場合ではないですが・・・