本山での講習から戻ったら、墓地にあるお地蔵さまの花立てに。おそらくどなたかの葬儀に使われたのではないかという白菊が供えられていました。もしかしたら、前回の「葬儀のお花、喜んで引き取ります!」のPart 1を読んでお供えして下さったのでしょうか?お地蔵様の周辺に菊の香りが漂っていました。本当にありがたいことです。お地蔵さまも、なんだかニコニコしているみたいでした。
さて、「仏教に忌(いみ)という事なし」という言葉は、法然房源空(法然)上人のお言葉です。私がこの言葉に出会ったのは『一百四十五箇条問答』という本です。
この本は、一般の人から発せられるさまざまな質問に、法然上人が心を込めて丁寧にお答えになっている問答集です。鎌倉時代の人々の思い、悩みが生き生きと描かれ、法然上人のお人柄も、まるで目の前におられるかのように伝わってきます。
この問答集は、筑摩書房の文庫本で、原文と現代語訳が収められたものがあります。その本の表紙には「法然が教えるはじめての仏教」とも書かれています。
仏教というものの見方、考え方の基本を法然上人から直接教えていただいているかのようです。何度読んでも嬉しくなります。
ああ・・・法然上人のお弟子にしていただいて良かった!あ、法然さまは、私のような怠け者を弟子にしたことで困っておられるかもしれませんが・・・
さて、忌という事なし・・・の件です。平安時代から鎌倉時代にかけて、人々の生活は忌み事でがんじがらめになっていました。ケガレを避けることにやっきになっていたのです。
最大のケガレは死に関連した死穢です。そして死と深い関係のある「血液」もパワフルなケガレをもたらすものでした。
出産したばかりの母親や生まれたばかりの子供は血にまみれており、「けがれた状態」という認識でしたから、そのようなものが念仏しても良いかと法然上人に問うているのです。上人のこたえはシンプル・・・「赤ん坊にきたないものがついているわけではありません。きたないものは赤ん坊に限ったものではありませんよ」とあっさり否定しています。
「仏には浄き、穢きの沙汰なし」ときっぱりおっしゃっています。
800年も前に、法然様はきっぱり否定なさったのに・・・葬儀からもどったら、塩を体中にふりかけてて「清める」まで家に入らないとか、私たちは今でも「ケガレ」の意識から自由ではないのです。
葬儀に使われた花にケガレが伝染しているわけがありません。花は花のまま、その美しさを香りを愛でれば良いのです。それを「葬儀に使われたから・・・」というのは、私たちの心の汚れでしかありません。
それでもやっぱり・・・気になる方は、どうぞ慈雲寺にお供えして下さい。