慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

僧侶の「坊主頭」はなぜ?

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 先日、「庵主さんにだったら、今さら聞けない・・・みたいなことも気軽に聞けて嬉しい」と言って下さる方があって、内心ちょっとドキドキ。「今さら聞けない簡単なこと」が案外難しいのは、このサイトをいつも見に来て下さる、ももはなさんが放つ「難問」で何度も思い知らされているからです。

 そして、先日の「今さら聞けない質問」は、「お坊さんはどうして坊主頭なの?」というものでした。

 実は、このことは以前、少し調べてみたことがあります。どうやら、もともと戒律として剃髪が定められいたわけではなさそう。インドは暑いし、清潔にしておくには髪の毛は邪魔・・・程度だったようです。

 

 しかし、今はさまざまな説明がされています。例えば、髪の毛は放っておくと、何もしなくてもどんどん伸びてくる。人間の煩悩も同じ。髪を剃り、煩悩を滅することを常に心がかるため・・・という説明が一般的のようです。

 禅宗では、4と9の付く日に剃髪することになっていて、それは「欲(49)を刈り取るため」と説明する人もいるようです。ダジャレか?

 

 ま、髪の毛を剃ったり、特殊な形に刈ったりするのは、仏教だけでなく、キリスト教の修道士や、他の宗教でもしばしば行われています。人間の体の中で一番目立つところなので、そこに「立場を主張する」形を取り入れることで、僧侶としての覚悟、出家者としての立場を明確にして、生活全体を整えていく役割もあると思います。

 

 私は髪の毛がとても速く伸びるので、頭を剃ることに何の抵抗もありませんでした。ヘアスタイルや髪の手入れにきを使わなくても良くて、さっぱり!という感じ。

 不便と言えば、坊主頭にズボン、Tシャツなどで女性用のトイレに入ろうとしてギョッとされたことがあったぐらい。以後は、外出時は帽子必携です。温泉に入るときもちょっと困ると言う話は、以前、このブログに書きましたね。

 それから、冬は寒い!寝るときは毛糸の帽子が必需品です。

 

 それ以外は、剃髪はライフスタイルの表現程度にしか考えていません。尼僧さんの中には「有髪の尼僧なんて認めない!」とこだわっている人も多いようですが、私はどちらでもよいのでは?と思っています。

 髪は女の命、それを捨てて修行に励む・・・なんて考えていないからかもしれません。

 

 

お寺でまったり・・・・

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 慈雲寺では、毎月満月の夜にお月見を兼ねた写経・写仏の会を行っています。先日の満月の夜、小学生ぐらいのお子さんを連れた若いお母さん数人も参加してくださいました。子どもたちも写仏や「南無阿弥陀仏」の名号を一緒に書写してくれていました。

 お茶とお菓子を用意していたら、他の方々がお帰りになった後も、お母さんたちは楽しそうにおしゃべり。「ここはくつろげるので・・・」と皆なニコニコ。

 くつろげる・・・・これは本当に嬉しい言葉です。

 

 立派なお寺、塵一つなく整備されているお寺に、徳の高い高僧がおいでになるお寺も大切だと思います。「権威」とか「威儀」とかいうものを感じると、語られる言葉や教えをありがたく受け入れたくなるからです。

 でも、私は「権威」のかけらも身についていないので、そちら側からのアプローチは難しい・・・・では、どうすれば・・・・

 「まったりできるお寺」というアプローチはどうでしょう?心が少し重いとき、阿弥陀様の前で手を合わせてボンヤリできるお寺。もちろん、心地よさが大事ですから、掃除は必須ですね・・・ちょっと困った・・・・と、思っていたら、嬉しいオファーがありました。

 地元の女性たちの趣味の会、今までは公民館を利用していたのですが、コロナ禍で一時公民館が閉鎖されていたとき、「お寺を使わせて下さいませんか?」とお声をかけて下さいました。もちろん大歓迎!「お礼は?」という質問に、冗談半分に「お参りのお賽銭を御喜捨下されば十分です。良かったら、お掃除をして下さるとありがたい。」とお願いすると、「もちろん、使用後はきれいにさせていただきます。」と即答でした。

 そして何と、すみずみまで掃除機をかけ、拭き掃除までしてお帰り下さいました。嬉しい!

 そして、公民館が使えるようになってからも、「慈雲寺の方がくつろげるという声が多い」とのことで、先日、また使っていただきました。そして、また綺麗に掃除してお帰りになりました。ありがたし!

 ま、本当なら、毎日私がきれいに掃除すべきなのですが・・・・

 

 と、いうわけで、慈雲寺は「お寺でまったりしたい」という方はいつでも大歓迎。心の中の怒りや不満のエネルギーを拭き掃除に転換・・・というのも歓迎です。

 

◎今日の写真は、ご近所の川端に咲いていたオシロイバナです。この花はなんとアンデス原産。江戸時代に観賞用に日本に持ち込まれ(どうやってかな?オランダから??)、やがて野生化したそうです。



10月の慈雲寺の行事

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 外には中秋の名月が輝いています。本堂の縁側から、美しい月の動きを独り占めできるなんて、なんと贅沢なことでしょう。中秋の名月といっても、実は今夜(1日)は満月ではありません。2日の夜明け直後の朝6時に満月になるそうです。なんだかおもしろいですね。

 さて、10月の慈雲寺の予定です。

 

1)平日毎朝7時半より 『般若心経』で朝の短い勤行をいたします。

 15分ほどですので、通勤や通学の前にお参り下さい。出入りは自由ですので、時間が合わない方は、先に退席なさっても結構です。ほんの少しでも、阿弥陀仏の優しい笑顔に触れてから一日をスタートしてはいかがでしょう?

 なお、土曜・日曜は英会話のクラスを再開しますので、勤行は7時からです。

2)英会話のクラスを再開します。土曜と日曜の7時半からです。

 どこからでもスタートできる、簡単な英会話をご一緒に練習してみませんか?NHKのテキストを使いますが、ゆっくり、ゆっくり進めていきます。小学生からシニアの方まで、どなたでも歓迎しますので、お気軽にご参加ください。

 

3)10月2日・31日 夜7時半より 満月写経・写仏の会

 慈雲寺では、毎月、満月の夜にお月見を兼ねた写経・写仏の会を行っています。7時半からは、ご一緒に『般若心経』を読誦し、その内容についても少しづつ学んでいきます。7時半に間に合わない方は、ご都合の良い時間においで下さい。早めにおいでになるのも歓迎です。

 必要な用具は全て用意してありますが、筆ペンを使用しますので、毛筆でお書きになりたい方はご自分で用具をご用意ください。

 なお、10月は二回満月があります。31日の満月は、地球から一番遠い(一番小さな)満月です。

 

4)10月25日(日)10時より 「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」

 慈雲寺では、毎月一回、身近な話題を取り上げて、仏教のものの見方、考え方をテーマにお話しの会を行っています。「講座」というタイトルはついていますが、どなたででもお気軽にご参加いただける内容です。

 今月のテーマは「縁起が悪いとはなんでしょう?」です。「縁起の法(真理)」は仏教の最も大切な教えの一つです。「縁」とはいったいなんでしょう?改めてご一緒に考えてみましょう。

 

◎慈雲寺の行事は基本的には全て無料です。仏さまへの御供養やお寺の維持のためにお気持ちを御喜捨いただければ幸いです。

 

◎慈雲寺へのアクセスその他の情報はホームページ jiunji.weebly.comをご覧ください。

 

 

僧侶も悩む・・・自由と自在

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 ススキの穂がだいぶ長くなってきました。お月見用にご近所の空き地へススキを取りに行きましょうか・・・・・なんて、のんびりしたことを書こうと思っていたのですが、今週はいろいろと悩みごとが重なって、心が重くなっていました。

 私が少し緊張して、硬い表情だったのに気が付いたのか、友人の僧侶が「隨麗さんは、『自由』というものにこだわってるからなぁ。自分が自由に時間を使ったり、自由に動けないのが辛いんだね。」と少し同情気味な口調で話しかけてくれました。

 う~ん・・・そうだなぁ・・・40年、フリーランスのライターとして生きてきたから、自由な暮らしだったのに、住職になったら、お寺に固定されている・・・のかなぁ?フリーランスだって、仕事を好き勝手に選べるほど売れっ子だったわけではないし、自由にふわふわしてたわけでもないけどなぁ・・・

 そして、その友人僧侶は「僕は自由なんかいらないよ。僕が目指しているのは『自在』な生き方だからね。」と涼しい顔。

 彼のいう「自在」とは、あらゆる事態に柔軟に対応して、その時、その時の最善をつくしていくことだそうです。三角形の事態が起きたら、自ら三角に変化して摩擦を減らす。四角の事態が起きたら、自らを四角に変幻自在・・・う~ん・・・わかったようでわからん。

 

 というわけで、このところブログが停滞気味ですみません。

10月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は「縁起」についてご一緒に考えてみましょう

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 先日の日曜日に9月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」を行いました。ブログでひっそりと告知させていただいただけで、お寺の周りにポスターも出さなかったのですが、40名以上の方がおいでくださいました。

 開けられる戸は全て開け放って三密を避けたのですが、少しドキドキしました。

来月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は10月25日(日)10時より行います。

 テーマは「縁起が悪いって、どういう意味ですか?」にしたいと思います。「縁起が良い」とか「縁起が悪い」とは、日常生活の中で今でも時々聞く言葉です。あらためてその意味をご一緒に考えてみたいと思います。

 「縁起の法」は、お釈迦様が悟りを開かれた後、最初の説法の中で説かれた法(真理)だとされています。仏教の基盤といって良い教えです。

 8月は「四諦」、9月は「八正道」と、仏教のものの見方、考え方の基本を学んできましたが、この「縁起」によって、仏教のもののとらえ方、考え方の基本的な構造が見えてくるでしょう。

 

 「講座」というタイトルはついていますが、お気軽に聞いていただける内容です。どなたでも歓迎いたしますので、ご参加ください。

 来月も風通しを良くしますので、暖かな服装でおいでください。

◎今日の写真は三重県御在所岳の風景です。

9月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」と駐車場のご案内

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 9月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、予定通り9月20日(日)10時よりおこないます。

 テーマは「八正道とは何でしょう?」です。先月の講座でお話をした「四諦」とともに、「八正道」はお釈迦様は最初の説法でお説きになった、仏教の最も基本的な教えです。

 八正道の説明の仕方はさまざまですが、悟りへ至る正しい筋道を示したものと言って良いでしょう。では仏教は何を「正しい」と見るのでしょうか?

 今日(9月19日)から始まるお彼岸の一週間、ゆっくりと自らを省みて、「正しい筋道」についてご一緒に考えてみましょう。

 

◎慈雲寺へのアクセスと駐車場についてのお願い

慈雲寺へのアクセスについては、慈雲寺のホームページ jiunji.weebly.com のcontactの所をクリックするとアクセス情報が出てきます。

 

 慈雲寺には十分な駐車場がありませんし、お彼岸中なのでお墓参りの方も多いので、できるだけ公共交通をご利用下さい。

 もし満車の場合はご近所の駐車場のご案内をいたしますので、052-621-4045までご連絡ください。

◎今日の写真は有馬温泉の旅館の床の間の生け花です。

「成仏」とは何でしょう? Part2

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  前回のブログでは、仏教が悟りを開いて「仏になる」ことを目指す宗教であることをお話しました。自力の修行者は、今生で可能な限り修行に努めますが、もし悟りを開くことができなければ、六道に輪廻して、再び人間か天人に生まれてくる機会を待つことになります。

 自力で成仏することは不可能ではないはずです。お釈迦さまは悟りに至る道を数多く示して下さいました。しかし、残念ながら私たちは今、末法という全てのことが非常に劣った状況の中にあると仏教は考えます。もちろん、例外的に優れた人もいるでしょうが、ほとんどの私たちは「凡夫」です。

 その凡夫が救われていく道はないのでしょうか?阿弥陀仏仏国土である極楽へ迎え取れることによって救われていくという浄土教では、「成仏」をどう考えているのでしょうか?

 

 末法に生きる凡夫のために阿弥陀仏によって用意されたのが、「極楽」です。極楽は、キリスト教で教える天国とは全く違います。極楽は、「ごく楽に修行のできる場」。そこに迎え取られた人々は、現世での能力、性格などにかかわらず、仏の教えを聞き、正しく理解し、正しく修行をする能力が備わります。

 阿弥陀仏法蔵菩薩という名の修行者であったとき、そのような「世界」、「仏国土」を私たちのために用意する、という誓いを立て、その誓いが成就されるよう、必要な修行と懺悔を私たちに代わって成し遂げ、阿弥陀仏になられています。

 極楽に迎え取られるだけでは、正確には「成仏」とは言えないでしょうが、理想の修行の場で修行を続ける者=菩薩は、必ず仏になることが決まっているのです。

◎菩薩は此岸(現世)に戻ってくるのか?

 前回と今回のブログのきっかけを作って下さったももはなさんの質問は、浄土へ行ったきりになってしまうのではなく、亡くなった方も、この世で私たちと楽しく暮らすことはできないのか?という問いかけだったと思います。

 結論から言うと、浄土教の教えでは、答えはシンプルに「できます」。

 極楽での修行のうちで最も重要なのは「慈悲」と「利他」です。自分が完全な悟りの世界に入る、成仏してしまうのを一時先送りにしてでも、他の衆生を極楽へ導く手助けをすることが菩薩の修行・役割です。観音菩薩勢至菩薩も、その他のたくさんの菩薩たちが、自分の成仏を遅らせてでも、私たちを助けるために、この世にいらしているのです。

 

 極楽に迎え取られた人は、六つの神通力を得ることができます。法蔵菩薩誓願の中

に含まれているのです。その一つが「神足智通の願」(第九願)。阿弥陀仏に出会った人は、「神足」を得て、どのような場所にでも行きたいところへ行けるという能力です。

 もちろん、現世の私たちのところへ来ることも思いのままです。お盆の時しか帰ってこられないわけではありません。私たちが亡くなった方を思うとき、必ず向こうからも寄り添ってくれるのです。

 でも、その寄り添い方は、なかなか私たちの思い通りにはいかないかもしれませんね。夢に出てきて欲しいとか、声が聴きたいとか・・・。その「思い通り」という願いからいったん離れてみると、願っているのとは違うかもしれませんが、思いのほか近くに、その人を感じることができるのではないでしょうか?

 極楽に行った人は、「天耳智通の願」(第七願)によって、どこにいても仏の声を聞き、その教えを理解することができるのです。仏の声だけではなく、私たちの声も必ず届いています。

 

◎今日の写真は、この夏に淡路島で出会った睡蓮です。