慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

5月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」5月26日10時より行います。テーマは「御祈祷、お守り、お札とは何か」です。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

お寺でクリスマスパーティ?!

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お寺にはサンタさんが来てくれるのか?!

 

 お寺で生まれ育った子供たちにとって、毎年の重要問題は「お寺にはサンタさんが来てくれるのか?」ということだったと、僧侶仲間が笑いながら話してくれたことがあります。

 「キリスト教の信者でなければサンタは来ない!」と、サンタ到来もクリスマスツリーもきっぱり否定された子供もいるし、「どうせ日本ではクリスチャンでなくても、ツリーを飾るし、サンタも来るよ」と、”通常”扱いで育った子供もいるようです。

 たしかに、日本のクリスマスは「キリストの誕生を言祝ぐ」というイベントではないようなので、サンタさんメインで楽しんで良いのかもしれません。

 まあ、クリスマスツリーは庫裏の中でひっそり?境内の木を飾って電飾もキラキラというのはあまり見ませんが・・・・

 

 さて、昨日はご近所の子供会の母子が集まって、慈雲寺でクリスマス会をしてくれました。「会場を貸してください」と言われた時は、即OK!お寺から子供の声が聞こえるのは、どんなイベントであろうと大歓迎です。

 この大変な時代に子育てしている人たちを応援したいという気持ちはいつでもあるし(早く態勢を整えて子供食堂のようなものをやりたい!)、慈雲寺は「みんなのお寺」として開放し、いつでも使って欲しいと願っています。

 お母さんたちの手で本堂の入り口周辺の飾り付けがされて、なんだかご本尊も楽しそうなお顔になりました。

 

 慈雲寺の本堂は畳も古く、あちこちの床が弱っている感じなので、飛んだり跳ねたりするのは少々心配ですが、それ以外の目的ならいつでもご利用下さい。

 グループはもちろん、個人のお稽古事の成果を発表して下さっても良いし、作品のグループ展や個展も歓迎です。お寺までお気軽にご相談下さい。

 

 というわけで、子供たちの声が聞こえる朝はとても心地良いものでした。片付けをして帰るお母さんたちに、「子供会のイベントはいつでも歓迎なので、また声をかけてくださいね。」と話しかけると、少し悲しそうな顔で「実はこの子供会は今年で解散なんです、」との答えです。子供の数の減少が主な理由とか・・・せっかくご近所の子供会とご縁ができたのに・・・何とも残念なことです。

 少人数でも、何かイベントをなさりたいなら、ぜひ声をかけて下さいね・・・

パソコンにアクセスしないと一日が長い?!

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カナダのスプリング諸島で見た先住民の工芸品。ビーズの使い方が美しい

 知多半島半田市にある常楽寺というお寺でお説教をさせていただきました。数日滞在したのですが、パソコンを持って行くのを忘れてしまいました。

 急ぎの原稿もなかったので、パニックになることはなかったのですが、久しぶりの断食・・・・ではない「断パソ」で、いろいろなことを改めて気が付きました。

 まず、テレビはネットの代わりにはならないということ。TVerなどでテレビ番組を普段でも少しは見ています。秋のシーズンでは、「和田家の男達」は全部見ています。他にも「日本沈没」や「アバランチ」など、見始めたものはあるのですが、これらは途中で脱落しました。というわけで、テレビを拒否しているのではないのですが、パソコンに向かわないならテレビを見よう!とはなりませんでした。TVerのように、自分の都合の良いタイミングで番組を見られないのが思いのほか嫌だった。

 ニュース番組は朝晩、色々なチャンネルを見てみのたのですが、呆れるほど各局の報道内容が変わり映えしません。あちこち見てもあまり面白くありませんでした。たまたま?それとも日本では報道の切り口、切込み方の角度は皆、同じ?

 ネットもパソコンもダメとなると(ちなみに私はガラケーなので、スマホでネットにアクセスというわけにはいきません。あ、私のはガラケーといっても、いざとなるとネットにもつながるし、お財布携帯としても利用できるらしいですが、触らぬ神に祟りなし・・・)、いやぁ・・・お説教を終えてホテルに戻ると、なんとまあたっぷり時間があるではないですか!

 おかげで次の講義の準備もサクサク。あ、パソコンが使えないので、慌てて100均でノートとボールペンを買って、原稿用のメモを作成。手を使って文字にしていくと、やたらに面倒!しかし、面倒なだけ思考が膨らみ、やがて整っていく感じがしました。不思議・・・

 このメモをワードに打ち直すとどんなことが起きるか、今晩やってみようと思っています。

 

 コロナ禍で寺院での宗教行事は延期が続いています。そのため、説教師を招いて行う法要も去年からほぼ全滅状態。説教師は常に場数を増やしていく以外に成長の方法がありません。こんな風にお説教の機会を与えていただくのは何とも有り難いことでした。

 

AIよ、なぜ私にこの動画を勧めるのか?・・・因果応報か?

 

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YouTubeのAIのおかげでニキビに悩んだ昔を思い出しました。トホホ

 

 油断するとすぐにボーッとしてしまい、無為に時を過ごしてしまいがちな私。僧侶として非常に情けない状況です。今月は「お掃除月間」と決めたので、少しの時間でも手を動かして掃除すれば良いのに・・・・

 こんな時に、一番の「魔物」はYouTubeです。可愛らしい子供や動物、漫才の動画を見ていたら・・・あらま、もう夕方・・・という感じです。

 ご存じの方も多いでしょうが、このYouTubeのページを開くと、おすすめの動画の一覧がまず出てきます。このおすすめは、けしてランダムではなく、今までの私の閲覧履歴をAIが判断して勧めてくるのでしょう。つい続けて見たくなるようなものが並んでいます。

 このAIチョイスが先日、とんでもないものを勧めてきました。それが下の動画です。あ、人によっては不愉快になるので、私の文を読んでから開いて下さいね。

 この動画は、たぶん、タイ(?)の賑やかな通りの一角にあるエステ。ずらりと並んだクライアントが受けている施術は、顔のニキビを絞り出すもの!というわけで、ひたすらエステティシャンがニキビをつぶしている映像が流れます。↓

Make Your Day Relaxing with Loan Nguyen Official #540 - YouTube

 

 まあ、普通ならけっこうグロテスクな映像なのですが・・・これがなんとなく不思議な魅力(?)があるのです。コメント欄を見ると、英語、ロシア語、スペイン語などで絶賛!英語とフランス語のコメントしかわかりませんが「リラックスした!」という声がいっぱい。え???ニキビをつぶすのを見てリラックス???!と思う方がほとんどでしょうが、何十万ものビューがついているのです。

 

 ま、人が何を見たいかはそれぞれ、「耳垢を除去している動画がすき」とテレビで発言していた女性タレント(名前は忘れた)を見たこともあるし・・・・暴力や他人をおとしめるものでないなら、まぁ・・・許容範囲かなぁ?

 

 というところで疑問なのは、なぜAIが私にこれを勧めてきたかです?

 仏教では、今自分に起こっている事態には、必ず原因があり、その原因は自分と無関係ではないと教えています。この因果関係の結果、AIがこの動画を選んだとすれば、いったい私がいままでYouTubeで見た、どの動画から導き出された結論なのでしょうか?

 それとも、たまにはAIも考えるのをやめて、ランダムに出してくるのかなぁ?

 

 仏教では偶然や神仏の気まぐれで何かが起こるのではないと教えています。過去のどこで原因を作ってしまったのか・・・ひょっとしたら前世でしたことが影響してる?

 そうだとすると、今日、ただいま行っている行動も「因」を作り続けていることになります。私たちは日々、仏様の教えを受け止め、悪いことをしないように心がけ、善いことをする、他の人のためにできることをさせてもらう、「利他に生きる」生き方を選んでいきましょう。

 この選択が明日につながっていくのです。

 

 ああ、今日あのニキビ動画を見てしまったので、これからしばらくはAIが必死に勧めてくるかも・・・・

 ところで、慈雲寺には、若々しいお姿でお肌もピカピカの「美肌弘法さん」がお祀りされています。お肌の悩みのある方は、ぜひお参り下さい。

 

12月の慈雲寺行事のご案内

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慈雲寺の属する浄土宗西山派西山浄土宗)の総本山光明寺で見今年(11月初旬)の紅葉。

 

 普段から基本、ぼんやりと日々を過ごしているので、あまり月日の流れは気にならず、時々、「あら?もうセーター着ないと寒い!」なんて気がつきながら、さっさと衣替えもできないダラダラ暮らしです。

 それでも、今月は少々事情があり、個人的には「掃除月間」といたします!いや、一に掃除、二に掃除が僧侶の基本なので、こんな宣言は恥ずかしいけど、おおやけにしておかないとダラダラになってしまいそうなので・・・進捗状況はブログでご報告いたします。

 

 さて、12月の慈雲寺の行事です。

◎12月19日(日)10時より  尼僧と学ぶやさしい仏教講座

 テーマは「仏教の考える『理想の生き方』」です。

 大乗仏教は善行を積み重ね、利他に生きることによって出家をしなくても救われていく道を示した教えです。末法の時代に生きる私たちは、なかなか「善きこと」を積み重ねるのは難しいですが・・・仏教徒として穏やかで大らかな暮らしをしていく智慧をお釈迦様の教えからご一緒に学びましょう。

 

◎12月19日(日)夜7時半より  満月写経の会

 慈雲寺では、毎月の満月の夜にお月見を兼ねた写経の会を行っています。7時半から、ご一緒に『般若心経』を読み、心経の内容についても毎月少しずつ学んでいきます。早めにおいでになっても結構ですし、読経に遅れてもご心配なく・・・必要な道具は全て用意してあります。

 今月は地球と月の距離が一年で一番離れる時。一年で一番小さな満月というのも、また味わいがありそうです。

 

◎12月21日(火) 終い弘法の法要とお砂踏み

         法要は10時より、お砂踏みは全日

 慈雲寺は、現在の住所は名古屋市内ですが、文化史的には弘法大師の信仰が篤い知多半島の影響の強い場所にあります。

 慈雲寺は浄土宗西山派西山浄土宗)に属する寺院ですが、弘法大師さまともご縁があり、本堂の左手に御大師さまをお祀りしています。慈雲寺の御大師さまは、他にあまり例のない若々しいお姿です。

 お肌はつるつるで、ガラスの玉眼はキラキラと活力に満ちています。慈雲寺は江戸時代から有名な皮膚科の医家の尽力で生まれたお寺ですから、そのご縁もあっての「美肌」の弘法さまなのかもしれません。

 21日は御大師さまのご縁日です、10時より、短い法要をして、弘法大師のお言葉をご一緒に学びましょう。

 また、四国八十八カ所の霊場から集めた「お砂」を踏みながら、ミニ巡礼が体験できる「お砂踏み」も体験していただけます。お砂踏みは本堂の扉が開いている間はいつでもお参りしていただけます。

 

◎12月31日 深夜12時45分より  修正会

 大晦日は、ご一緒に読経し、一年の間に心に積み重なったさまざまな悩み、苦しみ、怒りなどをいったん「手放して」、新たな年をご一緒に迎えましょう。

 

◎慈雲寺での行事は、特別な場合を除いて全て無料です。仏様やご先祖様へのご供養、お寺の維持などのために、お気持ちを御喜捨いただければ、ありがたく存じます。

 また、慈雲寺はどなたにも開かれたお寺です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

 

★慈雲寺以外の場所での予定

◎12月8日1時より  半田市常楽寺東郷町2-41)でお十夜のお説教に呼んでいただきました。

 常楽寺知多半島屈指の大寺院です。お十夜法要のお説教師として招いていただきました。以前も何度か呼んでいただいたのですが、いつもドキドキ・・・1時から法要があり、お説教は1時半ごろからと思われます。

 参加者のほとんどは地域の老人会の方々だそうで、他宗派の檀家さんも参加されるとのことですので、お近くの方はお参り下さいませ。

 

◎中日文化センターの鳴海校での新春講座

「尼僧と学ぶやさしい仏教入門」 毎月第二日曜 13時半より

 昨年の春から鳴海駅前の中日文化センターで、仏教の入門講座を担当させていただいています。慈雲寺での講座よりも、少し系統だったお話をしています。仏教の考え方、ものの見方の基礎知識を固めたいという方たちとご一緒に学んでいます。

 1月からの講座では、『般若心経』について、その成立や内容についてお話したいと思います。心経の現代語訳は膨大な数がありますので、それを比較しながら理解を深めていこうという試みです。

 お問い合わせ、お申し込みは鳴海中日文化センター

(℡0120-53-8763)へ。

 

死体を嫌悪するのは究極の自己否定? Part 2

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慈雲寺の属する浄土宗西山派西山浄土宗)の総本山光明寺で見今年(11月初旬)の紅葉。

 

 ご遺体の火葬を行う火葬場は、東京や神奈川などですでにキャパシティを超えている状況だそうです。「多死社会」を迎えてはいるものの、それほど年月がたたないうちに、次は人口が激減するのが明白ですから、建設費も建設場所も確保が困難な火葬場を新設するのは現実的ではありません。そうなると、火葬の順番待ちという事態が、今後15年ぐらいはつづくでしょう。すでに順番待ちのご遺体を受け入れる「遺体ホテル」も存在しますし、新たに建設しようという動きも活発だと聞いています。

 前回のブログで、この「遺体ホテル」建設とその反対運動に関する新聞記事を引用しました。友人とこの話をしたところ、「ゴミ処理場でも保育園でも、自分や家族にとって必要なものなのに、”どこか別のところ”にあってほしいなんて、勝手だよね。」としみじみ・・・確かに、必要なものなのに自分のお隣にあるのは嫌・・・う~ん。

 その新聞記事では触れられていませんが、日本人の心の奥に深く根付いている「死穢」への怖れが、今になって却って私たちの心を鷲づかみにしているのではないでしょうか?コロナ禍で、死への恐怖は確実に私たちの心を侵食しています。

 葬儀を地域や自宅で行うのではなく、葬儀場を遣い、湯灌なども専門家にゆだねてしまって、家族が「遺体」に触れない状況では、生きていた人間と遺体になってからの人間に大きな溝ができてしまうのは当然でしょう。

 神道では、私たちが安全で穏やかな暮らしを続けるためには、「ケガレ」を避けることが最も重要だとされています。そして死によるケガレ、「死穢」は、最もパワフルで伝染力の強いケガレとされてきたのです。

 仏教が死後の世界を語り、死がけして「悪」ではないことを伝えるまで、私たちの祖先は「遺体」を非常に怖れてきたはずです。

 僧侶による葬儀は、近しい人の死がもたらす哀しみを癒やし、自分たちもまたやがて死する存在であることを改めて認識させるきっかけを育むものです。それによって、人々は生きていくことの意味を見つめ直し、生ききるための力を育めるはずなのですが・・・

 「家族葬」が当たり前となり、コロナ禍を理由に直葬もめずらしくなくなり、遺灰は散骨・・・その人の生きた証も記憶も猛スピードで消えてしまう・・・このような状況が広がれば広がるだけ、実は死への恐怖も深まっているのではないでしょうか?

 

 こういう時こそ、僧侶の役割が問われているのは感じていますが、私はまだまだオロオロしているだけなのが情けないところです。

 

 

死体を嫌悪するのは究極の自己否定?

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慈雲寺の属する浄土宗西山派西山浄土宗)の総本山光明寺の紅葉

 

 慈雲寺の周辺に大きなマンションが建ったらどうなるかという話をしていました。そういう動きがあるのでは全くなく、ヒョッコリとそういう話題になったのです。そうしたら、東京都内にマンションをお持ちの富豪お嬢様が、お寺や墓地ビューのマンションなんか誰が買うのか?と笑っていました。ええええ???そうなの????

 お笑い芸人のハライチの岩井勇気さんは墓地のお隣にお住まいらしく、その話題を良くラジオで語っていますが、少しも嫌そうではないけど・・・墓地ビュー・・・静かだし、空は広いし、悪くないとおもうけどなぁ・・・

 なんて笑っていたら、今日の朝日新聞にこんな記事が出ていました。

 

◎もし、自分の家の隣に「遺体ホテル」が作られると聞いたらどうしますか? 各地で起きる反対運動の根底には何があるのか。評論家で著述家の真鍋厚さんは、死体を嫌がることは「究極の自己否定」だと説きます。日常から見えなくなった死体の存在。そんな中で進むいびつな多様性の実態について、真鍋さんにつづってもらいました。

地元民への〝至極まっとうな反論〟

死体、遺体、亡骸(なきがら)……様々な言葉によって表される「亡くなった人」たち。わたしたちと同様、身体はあるが、生きてはいない。具体的には、呼吸がなく、心臓が動いておらず、瞳孔が光に反応しない状態を指す。

医師が判定するまでは「死亡」とはならないが、便宜上はそれが「亡くなった」ことを物語る。言うまでもなくわたしたちも遅かれ早かれそこへ仲間入りを果たすことが確実なわけだが、その事実から極力目を背けてあたかも死のない世界を築こうとするかに見える人々もいる。

つまり死体を積極的に差別することによってである。日常生活から死体そのものを排除して、死を想起させる物的な証拠を消し去るのだ。

近年、遺体安置施設の建設をめぐって各地で反対運動が起こっている。

例えば、神奈川県川崎市のある遺体ホテルでは、建設前に開いた地元民への説明会で、「こういう施設が近所に存在すること自体、気持ち悪い」などという意見が飛び出した。

皮肉な話ではあるが、それに対する経営者の反論は至極まっとうであった。「法的には何の問題もありません。よく考えてください。人はみんな死ぬんですよ。みなさんもこういう施設を必要とする時が来るかもしれない」(「死者のホテル」が繁盛する時代/2016年11月2日/日経ビジネス)。

少ない火葬場の待機期間を支える役割

遺体ホテルとは、遺体安置を専用とする施設のことで、葬式や火葬までの間預けておくことが主な目的だ。

日本における年間の死亡者数は現在約137万人(人口動態統計/厚生労働省)ほどだが、今後右肩上がりとなり2030年には年間160万人を超える「多死社会」が訪れるとされる。

そのような状況下で遺体ホテルは、ただでさえ少ない火葬場の待機期間や簡便な葬送を支える役割を担いつつあるが、少なくない人々は〝NIMBY〟(ニンビー、Not In My Back Yardの略語で「施設の必要性は理解できるが、家の近くでは止めてくれ」)という立場を隠さない。

けれども、そもそもの根本的な問題は、ニンビーという感覚以前に、死体がグロテスクな存在として観念されていることにある。そう、死体を「人」だとは思っていないのだ。

<死体はこの国では、もっとも差別された存在である。それを救っていたのは、宗教儀礼である。だから、ホトケなのである。聖と賤とは、まさに裏腹である。だから、時代が変われば、死体ほど差別されるものはない。(略)死者が変に重要視されるのは、それを特殊なものとして、タブーを置くからである。いまや必要なのは、ほかでもない、死体の「人間」宣言である。それを、ふつうの人として、扱ってあげればいいではないか。(略)死者に必要なことは、ふつうの人としての単純な取り扱いである。>――養老孟司『日本人の身体観の歴史』法藏館

これは解剖学者の養老孟司がかつて述べた日本における死体の取り扱いに対する異議申し立てである(以上『日本人の身体観の歴史』法藏館)。

養老は「死体は歴然とした身体である。しかし、多くの人は、それを身体とは見なさない」と指摘する。

「それは死体であって、『生きている身体』とははっきり別物なのである。『生きている身体』が、死という瞬間を境にして、突然異次元に移動する。そんな馬鹿な話はないが、世の中がしばしば、その種の馬鹿な話でできていることは、よくご存じのとおりである」(同上)……。

亡くなった途端、よそよそしくなる家族

葬儀会社の人からよく聞く話だが、身内の遺体に触れたがらない人々が増えている。衛生観念云々ではなく、単純にどう扱ってよいかが分からないのだそうだ。

臨終までは手を握って嗚咽していたのに、亡くなった途端、妙によそよそしくなることも多いという。ある葬儀会社の重役は、「生きている人が動かなくなった時点で『ご遺体』という別のものになる、と感じているようだ」と推察した。

それもこれも死を生活空間から遠ざけ過ぎた結果といえる。この場合、消費者意識は、市場に「汚れ仕事」と称されるものを請け負わせる性格上、進んで死にまつわる物事を素早くクレンジングする行為に加担する。

近代化に伴う産業化は、良くも悪くもわたしたちが「ただの生物」であることを目撃する機会を限りなくゼロにする方向に仕向けるのだ。これは先進各国で顕著な傾向といえる。

葬送のアウトソーシング

アメリカで話題書となった『ある葬儀屋の告白』(鈴木晶訳、飛鳥新社)を著した祖父の代から続く葬儀屋の後継ぎであるキャレブ・ワイルドは、日本と同じく地域社会が行っていた葬送が市場にすべてアウトソーシングされるとともに、人々ができれば関わりたくない他者の死(それは自分にとっても死が人生の終着点であることを突き付けるからだが)から距離を置く傾向に拍車を掛けたとした。

だが、以前は「亡くなった人」の世話を通じて自分自身の死を受容する気構えが形作られていったとする。

「死者の世話をすればするほど、死そのものが怖くなくなる。死者に近づけば近づくほど、自分が死ぬという運命を受け入れやすくなる。ごく最近まで、人々はいまよりもずっと死に近いところにいた。現在、死のネガティブな物語があまりに強くなっているために、私たちはそれを克服することはできない」(同書)と述べた。

その上でワイルドは、ごく稀ではあるがと前置きしつつ、葬儀のプロセスに積極的に関わった家族の例を挙げ、多少なりとも克服できる可能性に含みを残した。

「自分たちが死ぬとは夢にも思っていない」

しかしながら、ワイルドの事例は死者とその周囲の人々の絆、要するにどのような関係性であったかに大きく依存している面がある。

今や専門家以外が他者の死の現場に立ち会うことは親密性の指標であるともいえ、それらの経験による実存的な危機を経た人格の陶冶はさらなる高みにある。

言い換えれば、社会を構成する人々の多くが他者の死に接する機会がほとんどない場合、当然ながら死者のための空間の重要性は軽んじられ、死者は実質的にその居場所を与えられることはない。死者は単に余所者となる。

一般論としての死は知識として屈託なく語られ、相続や医療費などお金の問題としても耳目を集めるが、「自分たちが死ぬとは夢にも思っていない」からだ。

先の遺体安置施設の反対運動に戻れば、自分は死なないと思っているからこそ遺体ホテルが「気持ち悪い」ものに映るのであり、養老的に言えば、死体が「別物」に見えるからこそホラー映画に出てくるグロテスクな物体のようにしか思えないのだ。

「あってはならないもの」になる死体

美術評論家の布施英利は、1990年代に『死体を探せ! バーチャル・リアリティ時代の死体』(法蔵館)という挑発的なタイトルの本を書いたが、それは「自然の産物」であるはずの人間の死が見えなくなることへの焦燥感からであった。

当時も現在も誤解されやすいのだが、布施の主張は、死体を「公衆の面前にさらせ」という意味ではない。死んだ人間を「異常なものとして取り扱うな」ということだ。

死んだ人間は「グロ」でも「猟奇」でもない。さっきまで生きていた普通の人間である。しかし、わたしたちの社会は、往々にして死ぬと同時に「人間ではないもの」にカテゴライズしてしまうのである。

しかも、そのような認識上の操作について無自覚であることが事態を余計にややこしくする。今や「亡くなった人」は誰かの目に触れることが過剰に忌避される以上に、ますますわたしたちの生活空間において「あってはならないもの」になっている。

「亡くなった人」を歓迎しない世界

多様性やダイバーシティが叫ばれて久しいが、わたしたちが承認している多様性の実態とは、不吉な兆候として忌避される対象をあらかじめ消し去った上での多様性であるのが実態だ。共存することへの嫌悪感などといった感情の絶対化に基づき環境を美化した上での多様性に過ぎない。

ホームレスが休憩しにくいよう設計されたベンチのようなものを「敵対的アーキテクチャ」と呼ぶが、経済学者のノリーナ・ハーツは、「それは、コミュニティーが生まれることを妨げ、誰が歓迎され、誰が歓迎されていないかを明確に物語る都市計画を反映している」(『THE LONELY CENTURY なぜ私たちは「孤独」なのか』藤原朝子訳、ダイヤモンド社)とする。

誰もが死を迎えるにもかかわらず「亡くなった人」を歓迎しない世界というわけであり、この場合、多様性という概念は、すでにそこから除外されたものが何であるかを意識させない、制限された枠組みであることに気付かせない目隠しとして機能するのだ。

だが、わたしたちが死者となったとき、気味悪がられ、追い出される側になるのはわたしたち自身なのである。これは生物としての自分自身を徹底的に冒涜して安堵する究極の自己否定といえるかもしれない。

 

 上の記事で、一番心に残ったのは、「死んだ人間を”異常なものとして扱うな”」という言葉です。このことについてはもう少し考えてみたいので、続きます。

 

巨大な白菜とプリプリの大根が届いたので、今夜はこの冬初のお鍋!

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一人では持てないほどの白菜!私の大好きな大根の葉も新鮮!

 

 僧侶は乞食(こつじき)と呼ばれるほど、毎朝托鉢に出て、お供えをしていただいた食物を食べるのが本来の暮らし方です。「お仏飯をいただいて生きる」、つまり仏様にお供えされたもののお下がりで生きていくのが僧侶の理想なのです。

 今でもタイなど南伝仏教の影響の強い地域の僧侶は「お金」に触ることを避けるのが原則です。ま、そうは言ってもクレジットカードを使ったりしているお坊さんもいるとかいないとか・・・

 私もご近所のスーパーや農協の朝市などでお金を使って買い物をしているので、僧侶としては理想的な生活とは言えないのですが、できるだけお供えを無駄にしないように暮らしていくことを心がけています。

 慈雲寺のある桶狭間周辺は、名古屋市内であるにもかかわらず、あちこちに農地が残っています。農業だけで生活している方は少ないでしょうが、自宅の庭や空き地などでせっせと野菜を育てているお年寄りはたくさんいらっしゃいます。

 そういった方々が、「今年できたものの初物はお寺へ」とか「特にできの良いものは仏様にお供えさせてもらう」という気持ちを持ち続けていらっしゃるので、慈雲寺にもときどき野菜や果物のお供えがあります。

 うれしい!そしてとてもありがたい。野菜の値段が高騰している今は、特にありがたいです。

 今日はずっしりと重い白菜と、みずみずしい大根をお供えしていただきました。今朝畑から収穫してきたばかり。食べ頃になるまで畑で育てられているので、即!食べるとスーパーなどにきれいに並べられている野菜とは比べものにならないおいしさです。

 今夜はこの冬初めてのみぞれ鍋にしましょうか。私は大根の葉が大好きなので、どうやって食べるか考えるとわくわくです。

 昨日は、これも食べ頃になるまで枝にしっかりついていたレモンをいただきましたので、贅沢にレモンポン酢かなぁ???

 あ、お坊さんが食べ物に執着してはだめかしらん?

 

 田舎の小さなお寺の住職暮らし・・・なかなか味わいのあるものです。