この時期は学生や生徒の夏休みに合わせてなのか、多くの宗派の本山で「得度式」が行われています。今日のニュースでは、浄土真宗の大谷派(お東さん)の得度式が行われたそうです。
↓の記事を見ると、大谷派では親鸞聖人が9歳で得度したという言い伝えにより、9歳から得度することができるようです。
得度式とは、僧侶として生きることを決意した人(発心の人)が、師僧から髪を剃ってもらい、衣など修行の必需品を授与されて、僧侶としての第一歩を歩み始めるための儀式です。
ここで問題となるのは「発心」です。つまり、仏弟子として生きるという意思が重要になってくるのです。
9歳の子供でも、もちろん仏弟子として生きる心持ができている子もいるでしょう。お寺に生まれて、仏の教えが毛穴からしみ込んでいるという子供もいるはずです。しかし、多くの子供は親に言われてなど、特別な「発心」無しに集まってきたのではないでしょうか?
子供の時に得度すること、9歳で仏弟子として歩み始めるのは悪いことではありますまい。子供の柔軟で、好奇心に満ちた心に仏の智慧がしみ込んでいくとしたら、なんと幸せなことでしょう。
しかし、この「発心」の問題はやはり考える必要があると思います。
この問題は仏教だけにとどまりません。例えばキリスト教の洗礼です。キリスト教徒になるためには必ず受けなければならない儀式です。
カトリックは赤ん坊の時に洗礼を受けたという人が多く、カトリック教徒の家の子供はそのままカトリック教会に属していくことになります。
しかし、プロテスタントの多くの教派では、カトリックのような「幼児洗礼」を認めていません。キリスト教徒となるという「意思」がなければ、洗礼に意味がないと考えるからです。自分の信仰を自らの意思で選び取る。神との契約を自らの意思で結んでいくということが重要なのです。
なお、カトリックでも幼児洗礼を受けた子供が一定の年齢になると、改めて自ら信仰告白をし、教会の正式メンバーとなる堅信式というものも行われています。
この自らの信仰を「選び取る」ということの大切さについて考えさせられた一日でした。