慈雲寺の属する浄土宗西山派(西山浄土宗)の総本山光明寺で見た朝焼けです。
「庵主さんは、統一教会のことどう思ってるの?私なんか『宗教はこわいなぁ…』って思っちゃうけどね。」と、慈雲寺の法話の会に時々来て下さるご近所さんの質問です。同じような質問をこのごろしばしば受けるので、8月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」のテーマを「そもそもカルトって何?」ということにしました。
そして先週の日曜日、なんだかとても蒸し暑い日だったのに、35人の方々が聞きに来て下さいました。ありがたいことですが、話終わってみると不十分なことだらけの話で、かえって皆さんの疑問や混乱を深めてしまったのではと反省しているところです。
宗教学的には「カルト」の定義は定説になるものはまだ確立されていません。むしろ定義の確定は放棄してしまっているような気さえします。
統一教会の献金などの問題点については、宗教社会学者の櫻井義秀さんが↓の記事でわかりやすくまとめて下さっているので、ご覧下さい。
日本人女性は韓国人男性に仕えるべき…旧統一教会が日本人信者に「金と奉仕」を要求する驚くべき言い分 (msn.com)
桜井先生のご指摘を見ると、統一教会の「集金システム」は、なかなかパワフルで「(ずる)賢い」もののように見えます。しかし、宗教史の面からみれば、ユニークなものではなく、過去から上手に学んでいるという印象です。
例えば「40万円相当の献金をして天一国と呼ばれる天国への入籍証を持たないと天国には入れないと言われている。」
と桜井先生は指摘しますが、500年前、カトリックの僧侶たちは信者に「免罪符」と呼ばれる天国への切符を売りつけていました。エホバの証人の教団でも、初期のころは「天国は定員があり、数多く教えを広めた人でないと天国へ行かれない」と教えていたりしました。そのほかの教団でも「天国行の予約券」の話は珍しいものではありません。
100円のお守りより、1万円の「特別護符」の方が御利益がありそうな気がするのもよくあることです。
私たちそれぞれが抱えている悩み、とりわけ罪悪感につながる思いは、多くの場合無防備で、少し嗅覚のある人ならすぐに見破られる可能性があります。
私たちと統一教会の信者たちとの間の「距離」は、案外に近いのでは?「あんなものに私は絶対ひっかからない!」とあなたは言い切れますか?
では、宗教は怖いと決めつけて拒否してしまうのが「安全」なのでしょうか?
本来宗教は、自分だけでなく「生きとし生けるもの全てが幸せになる」道です。そして恐怖や罪悪感をあおるのではなく、穏やかな心で生きるためのものです。さらには「私たちは何のために生きるのか?」「生きるとは何か?」という根源的な疑問にチャレンジする道でもあります。
では、統一教会やかつてのオーム真理教などに対応するためにはどうしたら良いのでしょう?↓に挙げた星さんのコメントが一つのヒントになると思います。
星 暁雄 (ITと人権) @AkioHoshi
>実は、統一協会の活動を封じるには"宗教"の概念を持ち出す必要はありません。統一協会は正体を隠して勧誘し、マインドコントロールしたうえ金銭、人生を搾取する。反社会的で人権を侵害する団体。法的に活動を封じる事は出来たはずだが、政府の無作為——というより擁護により生き延びてきた団体。さらに「信教の自由」という観点でも結論は出ている。「青春を返せ訴訟」では、正体を隠した勧誘は「信教の自由」を侵害する不法行為との判決が確定しています。統一協会の反社会的活動を封じる事は、今の司法判断の延長で可能です。誤解なきよう、短く「まとめ」を。
(1) 日本国憲法が定める「#信教の自由」を侵害しているのは旧統一協会の側との判決が確定。
(2) 宗教か否かに関係なく、反社会的で人権侵害を繰り返す団体には法的措置が可能。
(3) 旧統一協会は法的措置を回避するため自民党との関係を利用。
とはいえ、今、慈雲寺は屋根の雨漏りに悩んでおり、畳もぶかぶか。修理の資金調達に悩んでいます。なんだか「美肌に効く弘法大師のお数珠」なんか売りたくなってしまうかも・・・・ううう