慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

5月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」5月26日10時より行います。テーマは「御祈祷、お守り、お札とは何か」です。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

エアコン付きの「夏安居」は幸せ過ぎる・・・

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お釈迦さまがお悟りを開かれた場所に建てられた大菩提寺(インド・ブッダガヤ)

 

 僧侶は夜明け前に起きて、お仏飯の用意をし、朝の勤行を終えたころに太陽が昇るというのがお約束です。今だと、4時前に起きないといけませんね。それはちょっと苦しいなぁ・・・9時就寝・4時起床かぁ・・・と、思いながら、少しずつ起床を早めています。

 今朝は5時少し前に起きたのですが、な、な、なんと涼しい!いつもは料理をするのが哀しくなるような蒸し暑い(冷房無し)台所が涼しいではありませんか!さわやかな風がすいすい吹き抜けて行きます。

 暑さを理由にしばらく怠けていた台所の掃除もはかどる、はかどる。

 

 さて、夏安居(げあんご)のお話です。夏安居は、お釈迦様の時代から始まった習慣で、今も多くのお寺で受け継がれています。

 期間は旧暦の4月16日から7月15日まで。インドでは雨期で気温も高くなります。普段は一箇所に定住せず、あちこちに出かけて布教や修行をしている僧侶たちも、この時期には一箇所に集まり、屋根のある建物の中で修行します。

 雨の季節だということもありますし、この時期は虫や小動物などがたくさん活動するので、僧侶が出歩くことによって殺生をしてしまう可能性も高まる。それで、一箇所に集まって勉強しようというのです。

 

 雨を避けるのはともかく、この時期、インドで室内にいるのは大変だったことでしょう。

 私は、ほぼ年中「安居」。コロナ禍で旅行ライターのお仕事もほぼ無くなったので、ほとんど外へ出かけることもありません。

 エアコンのある部屋が一つだけあるので、そこに閉じこもってジッとしています。

エアコン付きの安居とはなんと贅沢なことでしょう。

 

 さて、この安居が終わる旧暦の7月15日には、僧侶たちは夏安居中の自分の行いを振り返り、規律や教えに背いていないか反省する日です。この日に、僧侶たちへお供えをすると、安居中の修行を功徳を分けてもらえると言われています。

 

 私には、みなさんにお分けできるような功徳を積めるでしょうか?・・・エアコン付きの安居では無理かしらん?

因果応報 Part2

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インドのブッダガヤで出会った小坊主たち。朝の勤行からの帰り道のようです。

 「因果」と「応報」は、いつもワンセットで語られる言葉です。あらゆる現象、できごとには原因があり、それに応じた結果が現れる・・・というのが一般的な説明です。

 仏教は、私たちの人生を含め、あらゆる「生」は苦に満ちている。それには原因があり、さまざまな条件(縁)によって、さまざまな形で苦が現れてくる。なかでも、「生老病死」の四苦は、避けようのない苦しみと教えています。

 こう書くと、仏教はなんだかとても悲観的な宗教のようですが、そうではありません。むしろ、この苦しみの原因を見つめ、誰のせいにもせずに自分で引き受けていく智慧と勇気を養う教えです。

 

 しかし、「自分の人生を自分で引き受ける」と言っても、なかなか納得いかないこととが多いですよね。「あんなに悪いことばかりしている奴が、栄華を極めているのはなぜ?」とか、「私はコツコツ努力を重ね、良いことをしているのに、なぜ次々と不幸になるのか?」、「地震や台風の被害まで応報なのか?」などなど、疑問は次々沸いてきますね。

 

 キリスト教などでは、なにか大きな問題や「不幸」が起きたとき、「これは神様がお与えになった試練。そして、神様はあなたが乗り来れられないような試練はお与えにならない。」と説明することがよくあります。

 カナダで暮らしていたころ、葬儀などで行われる神父や牧師の説教の中で何度か「神からの試練」という言葉が出てきて、いろいろ疑問になったことがあります。この言葉で、近親者を亡くした人の心が慰められるのでしょうか?

 

 仏教でも、「応報」の説明には苦慮してきたようで、原因と縁に応じた「報い」は、すぐに出てくる場合だけではないと説明しています。

 過去に繰り返してきた輪廻の中で積み重なってきた「業」も影響するので、応報はいつ起こるかわからない・・・・

 

 しかし、必ずすぐにおきる「応報」もあります。お釈迦さまは『ダンマパタ』という経典の中で

    「やったあとで後悔して泣くような行為は善ではなく、

   やったあとで喜びが生じ、心が満ち足りるような行為が善なのです。」

 

 と教えています。このような善い行いの「応報」はすぐにやってきます。そして、この「心が満ち足りる」という行いは、自己中心的なものでなく、他の人のためになる行為、「利他」の行いによって生まれるのです。

 

 

またまた、ももはなさんから難解な質問がぁ・・・・!因果応報について Part1

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ローマの市営動物園の建物の飾り。獲物の狙うライオンの姿でしょうか。

 

 いつも、なかなか手厳しいパンチを繰り出してくるももはなさんが、コメント欄に質問を書いて下さいました。

 「因果と応報は別なのですか?」

 

 え??「因果応報」はいつでもワンセットで語られる仏教用語です。別というのは、どういう意味なのでしょうか?質問に質問で返すのは愚かなことですが、一応うかがってみました。

 お返事はまだですが、「因果応報」について一般的な説明をまず書いてみます。

 

「因果」とは、すべての現象、できごとなどには、必ず原因があるいう教えです。結果には原因が必ずあるのです。例えば花が咲くには、かならず種や球根といった原因がある。

 そして仏教では、善い行いには善い結果、悪い行いには悪い結果が生まれると教えています。これが「応報」。行為に応じて結果(報い)が変わる。

 これを善因善果・悪因悪果といいます。

 そして、善なる行いを続ければ、それが「くせ」のように身につき・・・「善業」になっていくのです。

 悪も同じ。小さな嘘でも、それを続けるうちに悪が癖になり、その人をがんじがらめにする「悪業」へと進んでいくのです。

 ですから、日常の細やかな行動でも、常に「善いことをする、悪いことをしない、人のためにできることをさせてもらう」ことを心がけることによって、苦しみの少ない穏やかは暮らしが生まれていくのです。

 仏教は、他人や時代、環境などのせいにせず、自分の行いの結果は自分で引き受けるという勇気と力を養う教えでもあります。

 

 しかし、どんな種でも、机の上に置いておくだけでは花は咲きません。土や水、太陽など、さまざまな要素が積み重ならなければ結果にはなりません。同じアジサイでも、土の酸性度が違えば花の色も変わってくるのです。これが「縁」です。すべてのものはさまざまな縁によって変化してきます。

 

 ですから、結果は同じようには出ないし、すぐに結果が出ることもあれば、時間がかかることもある。しかし、長い目で見れば、結局、悪因悪果、善因善果になっていくのです。

 

 

オリンピックはさておき、今夜(24日)は満月写経、明日(25日)は仏教講座です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

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ローマの市営動物園の建物に描かれた装飾。なんだかローマ時代の遺跡風?

 昨夜は、家族に検査入院患者が出たので、一日中バタバタしていました。オリンピックに関しては、以前ここにも書きましたように、私はバンクーバー冬季オリンピックの時からしばらく、パラリンピック関連の通訳や添乗員などをしていたので、オリンピックには特別の感慨がありました。しかし、東京五輪が決まってからの状況には違和感いっぱい。自然にパラリンピックから離れてしまいました。

 昨夜の開会式も全く興味がなかったのですが、今朝の新聞で今上陛下の開会宣言や、バッハ会長との会見のときのおことばを読んで、今感慨を深めているところです。

 

 さて、今夜(7月24日)は満月です。

慈雲寺では、毎月満月の夜7時半からお月見を兼ねた写経の会を行っています。

 おそらく日本で一番ゆるやかな雰囲気の写経の会ですので、どなたでもお気軽にご参加いただけます。道具も全てそろっています。7時半から『般若心経』の読誦をご一緒にいたします。その後、心経の内容についても少しずつ学んでいきます。

 何時にいらしての結構ですので、ご都合の良い時間においでください。

 

また、明日は10時より「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」を行います。

テーマは「お盆の意義とその迎え方」です。お盆というのは仏教行事ではありますが、仏教以前からの日本人の祖霊崇拝とも色濃く関連したものです。お盆とは何なのか、何のためのものか、どうすごせば良いのか・・・どう祖先をお迎えすべきかなど、ご一緒に考えてみましょう。

 

 慈雲寺へのアクセスは慈雲寺のホームページ jiunji.weebly.com のcontactの欄をご覧ください。地図も掲載しています。

 

水分と塩分補給に、お寺で一休み

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新幹線の中から眺めた富士山。山頂から涼しい風が吹いてきそうですね。

 

 夏も本番になってきたようですので、慈雲寺恒例の「水分と塩分補給基地」を始めます。

 本堂の入り口に冷たいお茶とお菓子、塩分補給用の飴などを用意しておきますので、散歩やお参りの途中にぜひ一休みして下さい。

 慈雲寺はどなたにも開かれたお寺でありたいと思っています。どうか本堂に入って、お茶を飲みながら、阿弥陀様や弘法大師様とのご縁を深めてください。

 大きな声でお経を読んだり、「南無阿弥陀仏」のお念仏を称えてくださるのも歓迎です。ご近所を気にせずに(?)読経できる幸せは格別ですよ。

 

 実は、母がここ数日不調を訴えていたのですが、結局水分不足が原因だったようです。熱中症が怖いので、一日中エアコンをつけるように言っていたのですが、快適なので、つい水分を取るのを忘れてしまっていたようです。

 マスクをしているの喉が渇いたのを感知しずらくなるという話も聞いたことがあります。

 どうぞ遠慮なく慈雲寺で一休みしてください。

 コップは紙コップをお使いください。消毒用のアルコールも用意しました。

 

◎お茶は、麦茶、ウーロン茶、十六茶、ほうじ茶など、その日の私の気分しだいです。

今月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、お盆の意義とその迎え方をテーマにお話します

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ローマの市営動物園で見た建物の飾り彫刻。これは象ですね。

 

 夜が明けるとセミが早速鳴き始めるので、目覚まし時計が不要になりました。夜明け前に起きて、涼しいうちに作務を済ませてしまうという作戦です。

 でも、日が昇ればすぐに蒸し暑くなるので、なかなか「張り切って作務!」というふうにはなりません。

 

 さて、今月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、7月25日(日)の10時より行います。

 テーマは「お盆の意義とその迎え方」です。お盆の発祥とその意味、ご先祖を迎える心構えなどについてお話します。「講座」というタイトルはついていますが、どなたにもわかりやすくく聞いていただける内容を心がけています。

 どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

 お盆の風習は地域によってさまざま。慈雲寺の周辺では、お盆の準備でお墓の掃除をするときに、西瓜をお供えする習慣があります。掃除が終わったら、墓前で家族が西瓜を食べて終了・・・なんだか楽しそうですね。

 

 慈雲寺での行事は、特別な場合をのぞいてすべて無料です。仏様へのご供養やお寺の維持などのために御喜捨いただければ有難く存じます。

 

 慈雲寺には十分な駐車場がありません。なるべく公共交通をご利用くださいませ。アクセス情報は慈雲寺のホームページ jiunji.weebly.com のcontactのページをご覧くださいませ。地図も掲載しています。

 

 

サイの角のように一人で歩め

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慈雲寺の属する浄土宗西山派西山浄土宗)の総本山は美しい竹林に囲まれています。

 

 慈雲寺の近くに「チェルシー」という喫茶店があります。昭和の香りがそのまま残されているような雰囲気。朝はモーニングを楽しむ昭和生まれの人たちでいつもいっぱいです。午後3時には閉店してしまいます。

 ここにはたくさんの新聞や週刊誌が置かれていて、すいている時間に行けば罪悪感なくゆっくり読むことができます。

 私は週間ポストでおもしろそうな記事があるときは、チェルシーへ行ってコーヒーを飲みながら熟読します。女性のヌード写真満載のポストを書店で買うのはちょっとはばかられるので、とてもありがたい。

 ちなみに、週間新潮で面白そうな記事があるときは、同じくご近所の昭和ムード中華料理屋に出かけます。

 さて、今回は↓の記事がお目当て。 

60~90代で「一人暮らし」の生活満足度 家族と「同居」よりも高かった (msn.com)

 

 このところ、週刊現代と週間ポストは競うように、「老後問題」や「終活問題」を特集し続けています。ヌードページも相変わらずなので、いったいポストや現代は、どんな読者を目指して発信しているのでしょうね?

 

 今回の記事では、老後はやたらと子供との同居に夢を抱かない方が良いと述べられています。

 このブログでも何度もお話しましたが、お釈迦さまは、「法(真理)を拠り所にして犀の角のように一人で歩め」と弟子たちに遺言されました。人は一人で静かに歩むことが基本なのです。一方、お釈迦様は多くの人々をみちびき、交流することを喜ばれました。

 

 日本に戻って驚いたことのひとつに「独居老人」という言葉が、まるで呪いの言葉のように用いられていることです。独居老人は不幸・・・と決め付け、孤独死はまるで罪悪のようないわれようです。

 

 人は誰でも一人で旅立つのに・・・

 

 阿弥陀仏や多くの菩薩たちは、常に私たちを思い、願ってくださっています。念仏者は、多くの人たちとの交流も大切にして喜べるし、一人でいるときも穏やかに暮らせるのです。臨終のときも、阿弥陀様がたくさんの菩薩さまたちと一緒に迎えに来てくれますから、念仏者に「孤独死」はありません。

 

 私は僧侶としてとても情けないボンクラですが、「慈雲寺の庵主さんは、一人暮らしだけど、いつも楽しそうだなぁ・・・阿弥陀様と一緒だからかな?」と皆さんに思ってもらえれば、出家の本懐といえるでしょう。

 ま、もちろん誰でも「寂しいなぁ・・・」と思う日があるのは当然です。そんなときは友人に手紙を書いたり、チェルシーのような「行きつけの場所」に出かけるのも良いですね。

 行きつけのお寺に出かけるのもおすすめです。慈雲寺をそんな「行きつけ」にして下さるのも大歓迎!