慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

5月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」5月26日10時より行います。テーマは「御祈祷、お守り、お札とは何か」です。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

枝垂れ梅を満喫

 先日、鈴鹿の森庭園に梅のお花見に連れて行っていただきました。

 私は桜より梅の方が好き。ほのかな香りも嬉しい。

 慈雲寺にも梅の木が四種類あります。「桜切るバカ、梅切らぬバカ」という言葉があるようで、梅はきちんと剪定して手入れするのが大切らしい。でも、慈雲寺の梅はワイルドなまま、全く枝の手入れも肥料などの世話も無し。それなのに、毎年律義に咲いてくれるので、可愛いし、申し訳ない気持ちにも・・・・

 鈴鹿の森庭園の枝垂れ梅は、日本の匠の技術を駆使して剪定したもの。枝の一本、一本に細かな配慮が感じられました。

 でかけた日は、ちょうど満開直前。ふっくらと「明日咲きます!」という感じで膨らんだ蕾が美しい。満開よりも、このぐらいがなんともちょうど良い素敵さでした。でも、もう少したてば、梅の愛らしい花びらの花吹雪が見られるでしょう。

 

 梅でも桜でも、お花見はまさに「諸行無常」を教えが目の前に広がっているように見えます。花の美しさは日に日に変わっていきます。蕾も愛らしいし、散る花びらも美しい。やがて若葉と残り花も名残の美しさです。

満腹になっても、もっともっとと欲しがる猫は、煩悩に苦しむ私たちの姿か?

 上の写真の猫は、お寺の周辺に住み着いているらしい野良猫です。シャム系のような感じで、もしかしたら元はどこかに飼われていたのかもしれません。

 お寺のすぐ近くの家で餌を貰っていたようなのですが、そこの住人のおばあさんが施設に入ってしまい、すっかり痩せてしまったのですが、私が餌をやるようになってから健康そうに戻ってきました。もしかしらた他の餌場もあるのかも?

 この猫は、私を見ると足に体を摺り寄せたりするのですが、触ろうとするととても怯えた様子で嫌がります。

 餌を皿にたくさん入れておくと、全部食べてしまうので猫の適量というのがわからない私は心配していました。そこで、ご近所で地域ネコの世話や、保護ネコなどをしているKさんに相談してみました。

 「一度飢えた経験のある猫は、目の前に食べられるものがあれば、全部食べようとしますよ。お腹がいっぱいになっても、吐きながら食べることさえあります。」とKさんは痛ましそうな目で猫を見て言いました。

 

 私たちも、煩悩に振り回され、「もう十分」と満足して幸せを感じることはなかなかできません。もっと、もっとと貪欲に欲しがります。「貪り」こそが私たちを追い回し、苦しめているのです。

 「小欲知足」というのは禅のお坊さんが良くおっしゃることばですが、足るを知る、「これで十分」と自らを満たしていく幸せを大事にしたいものです。

 しかし、この野良猫のように、飢えた経験があると、なかなか足るを知る幸せに出会えないかもしれませんね。私たちは何に飢えているでしょう?

 お金ですか?名誉ですか?ブランド物ですか?愛情ですか?

 自分が何に飢えており、貪ろうとしているのか、一度勇気を出して自分を見つめてみてはどうでしょうか?

 仏教では「諦め」ということを重要視します。この諦めはギブアップのことではなく、ものの本来のありかた、事実、実情、自分の気持ちなどを「明らかに見る」という意味です。

 自分の欲望、貪りの気持ちを「諦め」てみましょう。

 

2月の「尼僧と学ぶ優しい仏教講座」は2月25日です。

 上の写真は大府市の盆梅展で見た白梅です。慈雲寺の境内の白梅も見ごろになってきました。

 先週から一宮市にあるお寺を回ってお説教をさせていただいていました。慈雲寺が属する浄土宗西山派西山浄土宗)では、毎年初頭に法主猊下の発せられる「おことば」を解説する説教師が全国の寺院に派遣されます。これを「巡教」と言います。本山からの派遣なので、この説教師に選ばれることは名誉でもあるし、なかなかに緊張することでもあります。

 同じ「おことば」をテーマにしたお説教でも、行く先々のお寺の雰囲気や聞いて下さる方々の様子も違うので、毎回同じ話というわけにもいかず、むずかしい所です。それだけに学ぶことも多く、得難い経験になります。

 

 さて、今月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、2月25日(日)10時より行います。テーマは「法然上人の開いた『浄土門』とは何だったのか」です。

 今年は、法然上人が浄土の教え、阿弥陀仏の救いの教えを人々に初めて説いてから850年の節目にあたります。この講座でも3回にわたって、法然上人の開いた「浄土門」とは何だったのか、その背景となっていた歴史的状況などを見渡しながら、お話させていただきたいと思います。

 「講座」というタイトルはついていますが、どなたでも聞きやすいお話を心がけています。どうぞお気軽にご参加ください。

◎慈雲寺での行事は特別な場合を除いて全て無料です。ご先祖のご供養やお寺の維持のためにお気持ちをご喜捨いただければ、有難く存じます。

◎慈雲寺へのアクセス

 お車でおいでの方は、国道23号線の有松インターで降りて北上してください。カーナビに慈雲寺の電話(052-621-4045)を入力してすれば探しやすいでしょう。しかし、慈雲寺には十分な駐車場がありません。できるだけ公共交通をご利用下さいませ。

 バスは、大高駅南大高駅、有松駅、鳴子北駅などから市バスが出ています。郷前(ごうまえ)というバス停で下車し、郷前の交差点まで1分ほど歩いてください。交差点南東側にうどん屋さん(ただいま工事中)があり、その後ろに見える大きな屋根が慈雲寺です。うどん屋さんの右側に細い道がありますので、そこを通ってお寺においでください。

 なお、バスの時刻表は、名古屋市交通局の時刻表をご参照下さい。https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/bus/timetable.htm

遅ればせながら、慈雲寺の二月の行事予定です。

 裏庭の枝垂れ梅が5分咲きです。慈雲寺には鉢植えも含めて4本の梅の木があります。鉢植えの白梅が最初に開き、次はこの裏庭の紅梅。そして表の白梅が開き、最後に一番大きな紅梅が咲き始めます。開花時期が10日ずつぐらい離れているので、長い間花が楽しめるのがありがたいところ。私は桜より梅派です。リンゴの花も好きですが、名古屋周辺では見られませんね。長野まで行かないとだめかしら?

 

 遅く成りましたが、今月の行事予定のお知らせを書くのを忘れていました。

 

◎今月の満月は2月24日です。慈雲寺では満月の夜にお月見を兼ねた写経の会を行っています。

 7時半から、皆さんで『般若心経』の読経を行い、毎月少しずつ心経の内容も学んでいきます。

 必要な道具は全て揃っていますので、初心者の方もお気軽にご参加ください。

 

◎今月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は2月25日10時より行います。

 テーマは、「法然上人の開いた浄土門とは何だったのか?」です。

今年は、日本に「南無阿弥陀仏」の称名念仏の教えを確立した法然上人が、人々に教えを説き始めた「立教開宗850年」の節目にあたります。

 通常、慈雲寺のこの講座では、宗派に偏らず、仏教的なものの見方や考え方をお話していますが、今年は法然上人の教えを系統的に学んでみたいと思っています。

 「講座」というタイトルはついていますが、どなたにも解りやすく聞いていただけるように心がけています。

 どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

 

★慈雲寺の行事は特別な場合を除いて、すべて無料です。ご先祖のご供養やお寺に維持のために、お気持ちをご喜捨いただければ有難く存じます。

◎慈雲寺へのアクセス

 お車でおいでの方は、国道23号線の有松インターで降りて北上してください。カーナビに慈雲寺の電話(052-621-4045)を入力してすれば探しやすいでしょう。しかし、慈雲寺には十分な駐車場がありません。できるだけ公共交通をご利用下さいませ。

 バスは、大高駅南大高駅、有松駅、鳴子北駅などから市バスが出ています。郷前(ごうまえ)というバス停で下車し、郷前の交差点まで1分ほど歩いてください。交差点南東側に接骨院があり(休業中ですが、看板は残っています)、その後ろに見える大きな屋根が慈雲寺です。接骨院の右側に細い道がありますので、そこを通ってお寺においでください。

 なお、バスの時刻表は、名古屋市交通局の時刻表をご参照下さい。https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/bus/timetable.htm

カナダに残務整理に行っていました。Part 3

バンクーバー周辺には越冬する渡り鳥がたくさんやってきます。これはトランペット白鳥の群れです

 前の記事には「カナダ訪問の影響はそれほどなかった」というニュアンスのことを書いたのですが、上手なボディブローのようにジワジワと効いてきたようで、ここしばらく精神的にも身体的にも落ち着かない状態でした。

 そんなとき、今更ながらに気がついたのは、心が落ち着かない時、とりわけ少し憂鬱な時、私は必要以上に食べていることです。「口ざみしい」という言葉がぴったりです。本当に欲しいわけでもないのに、口に食物が入っている間は、一瞬、それに集中しますから、悩んでいることをほんのつかの間でも忘れられるという「効果」を求めているのかもしれません。

 

 カナダが恋しいという気持ちにもう少し素直になって、カナダの友人たちとの縁をもっと豊かにする手段を考えて、実行する(ここが大切なポイントですね)ことが、この憂鬱を脱するきっかけになりそうです。

 

 一番は友達のことですが、現実的に私を苦しませているのは「寒さ」かもしれません。

 帰国してから「カナダは寒かったでしょう?」とたくさんの方から聞かれました。しかし、バンクーバー周辺は暖流の影響でそれほど寒くなりません。一年に数回あり急激な寒波の時を除けば、気温は名古屋周辺と同じくらいでしょう。

 しかし!バンクーバーの家は、どこもセントラルヒーティング。家中、どこにいても温かです。夜中にトイレに行くとき寒さに震えるなんてことはないし、すきま風の音がいつもヒューヒューと響いていることもありません。真冬でも、Tシャツ一枚で過ごす人も多いくらい。ま、私は暖房の温度を下げて、セーターを着ていましたが・・・

 このセントラルヒーティングのありがたさに気がついたのは、膝の痛みのためです。カナダ滞在中は膝の痛みをほとんど感ずることなく、階段も立ち座りもスイスイ。持って行った杖もほとんど使わずに歩いていました。

 ところが、日本に戻ったとたん、膝が再び痛み出したのです。居間や勉強部屋にはエアコンもありますので、十分暖かくしていたつもりなのですが、廊下やトイレ、そして台所の寒さが堪えたのではと思います。

 

 春が来ると、辛い夏が近づくので、私は春の到来を熱望しているわけではありませんが、私の膝は温かな日を待ち望んでいるようです。

 何事も思い通りにはいきません。今日の午後は中日文化センターで、煩悩、すなわち思い通りに行かない苦しみについてお話しします。

カナダに残務整理に行ってきました Part2

 私の住んでいたマンションのベランダからの眺めです。

 

 カナダに住んで40年。突然、日本に帰国することになって大慌てで名古屋に赴任してから、そろそろ10年になろうとしています。カナダに山ほどしなければならない事務的なことがあるのに、現実を直視したくなくて放置していたのですが、それも無理な状態になっていました。

 「面倒くさい!」

 一言で言うとこれが最大に理由だと自分では思っていました。10年間、「ああ、さっさと整理しておけばよかった」と後悔したことはないですし・・・・いや、いろいろなことを知人や友人に頼んで(というか、押し付けて)来たので、それに対する罪悪感は積み重なっていたのですが・・・前回も書いたように、本当の理由を直視するのを避けていたので、心が必要以上に重く、カナダのことを考えるたけで鬱状態に落ち込むほどでした。

 その、本当に「直視すべきこと」とは、「カナダに残り、カナダ国籍を取って暮らした方が、私は幸せだったのでは?」と思ってしまうかもしれないという恐れでした。

 カナダに戻り、友人、知人、仕事上の仲間に会ったりしたら、彼らと私の10年を比べてしまうかも?この10年の自分の人生、生き方そのものに疑問を持ってしまうかも・・・という恐れでした。

 これはもちろん、『般若心経』に示されたような「顛倒夢想」です。「ここ10年カナダで生きた私」などというものは存在しないのですから、ありもしないものと私の慈雲寺での10年を比べてみても何の意味もないはずです。

 しかし、この無意味なことに怯えるのが私の弱さであり、凡夫の愚かさです。

 そう思ってしまうかもしれない自分・・・という愚かな夢想に振り回されて鬱々としていた私・・・それを直視するのは僧侶としてあまりに情けないというわけです。

 

 しかし、結果からいうと、私は一ミリも後悔の気持ちはおきませんでした。恐れていた気持ちにはならなかったのです。

 友人、知人、仕事仲間に会って、たくさん話をして、私がカナダで本当に幸せだったのだと改めて思いました。もちろん時には、泥沼にどっぷり落ち込んだようなときもありましたが、沼から抜け出てみたら、手にきれいな真珠を握っていた・・・というような時が何度もあったことを思い出したのです。

 しかし、慈雲寺に移ってからの日々と比べて、「カナダ暮らしを手放したのは惜しい」と思うようなことはありませんでした。私にとって、慈雲寺での暮らしが、楽しく、好奇心を刺激される日々・・・充実した日々であることに改めて気が付いたと言ってよいでしょう。

 私を僧侶にしてくれた橋本随暢上人、「阿弥陀様におまかせしとったらええんや。阿弥陀様が良いようにお手配してくれる」といつも言っておいででした。まさに、私の10年は阿弥陀仏のお手配の中にあったようです。

カナダに残務整理に行ってきました Part1

 しばらく更新をしなかったので、また友人から心配の連絡がありました。実は、残務整理をしにカナダのバンクーバーに行っていました。

 私は大学を出てすぐにカナダに渡り、そのまま慈雲寺に赴任するまでの約40年間をカナダで過ごしていました。その間、しばらく日本に滞在したり、北米各地に取材に出たりしてはいたのですが、自分の気持ちとしては「カナダ在住」という感じでした。

 永住権は持っていたのですが、国籍にはこだわりがあり、安易にカナダ国籍になることはできないと悩み続けていました。僧侶となってからは、いずれどこかのお寺の住職になるだろうと思っていたので、日本に戻ることは「一択」と考えるようになりました。

 慈雲寺の先代さまは「私は死ぬまで住職でいるので、葬式に帰ってきて後を継いでくれればよい」とおっしゃっていたので、慈雲寺の弟子にしていただいてからも、そのままカナダで暮らしていました。

 先代様が急病で御遷化なさったのが9年前。カナダでの暮らしの何もかもを放り出して慈雲寺に赴任してきました。

 以来、カナダのことは基本放置。知人や友人に面倒なことを押し付けたままでした。当然、いろいろな所に無理が出てきて、多くの人に迷惑や心配をかけることになってしまっていました。

 きちんと残務整理に行かなければと思いながら、コロナの問題もあったりして先延ばし、先延ばしを繰り返していました。

 一つは、カナダに入国するには永住権の放棄手続きをしなければならなかったという問題です。もう慈雲寺の住職になったのですから、カナダへ戻ることはない。したがって永住権の放棄は当然のことなのですが、手続きをしようと思うたびに何か問題がおきて先送りしていました。心の奥で嫌がっている自分がいたのです。

 

 仏教では、状況をありのままに「観る」(みる)ことの重要さを繰り返し説いています。現状をしっかり見つめ、選択肢の有無を見極め、最善の判断をする智慧を養うのが大切な修行です。

 選択肢が限られているなら、その中で最善で、しかも現実的なものを選ぶ・・・これができないのは、私の中にある煩悩、不用な執着です。

 カナダのことを考える度に、私は鬱々とした気持ちになっていました。選択すべき道は明らかなのに、愚図愚図とこだわっていたのです(づつく)