慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

お寺をコミュニティのセーフティネットに

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 今日は伸び放題になっていた生垣の枝払いをしました。時期的には適切とは言えないでしょうが、お墓参りの方が邪魔に感じるほど伸びていたので・・・すっかり汗だくになってしまいましたが、なんだか気持ちが良い!毎日、少しずつ整えていくことにします。

 さて、今日インターネットでボンヤリとテレビ番組を見ていたら、「コミュニティのセーフティネット」という言葉が耳に入ってきました。昔は「ご近所」のつながりがしっかりしていて、鍵っ子を見守ったり、障害のある人をサポートしたり、一人住まいの老人を見守ったりと、さまざまなことで「ご近所」が助け合っていたというのです。しかし、今はお隣さんの名前も知らず、助け合いもない。葬儀の知らせも回ってこない、町内会にも参加したくない・・・という人も増えてきたとか。

 私が慈雲寺に赴任してきたとき、すぐ気が付いたことがあります。この周辺には南北朝時代から住んでいる「地元の人」がたくさんいて、念仏講や庚申講なども残っているということです。一方、大きな団地や新しく住宅開発されたところもあり、なかなか複雑な地域のようでした。私は少しだけ社会学を齧ったので、このような組み合わせのコミュニティはとても興味深いと思っています。

 慈雲寺は(というか、尼寺の多くは)伝統的な意味での檀家を持っていません。しかし、長い間「村の庵主さん」という立ち位置で、他のお寺の月参りの代理をしたり、さまざまな相談に乗ったりしてきたようです。

 寺院というものは、ご先祖の供養はもちろんのことですが、生きている人々の役に立つことが第一だと思っています。どうすれば、できるだけ苦しみ少なく、穏やかに生きていかれるのかという智慧が仏教の教えだからです。

 その為には、慈雲寺は「セーフティネット」の役割を担っていきたいと思っています。「自分の居場所がない」と感じたとき、「そうだ。慈雲寺に行って少し心を落ち着けてみよう」と思ってくれる人がいれば、仏様も弘法様もとっても喜んでくれるでしょう。

 「今日は学校へ行きたくない」と思った子供が、本堂で本を読んで一日ゆったり過ごしてくれるのも嬉しい。保健室で一日待機しているなら、時々慈雲寺に来て、気分を変えませんか?勉強が苦手で学校がつらいなら、英語だけでも苦手を克服しませんか?お手伝いしますよ。

 「誰も自分の思いを聞いてくれない」と思うなら、阿弥陀さまや弘法大師さまにお話ししてみませんか?私でよければ、私にも聞かせて下さい。あなたのお話しは、お寺から外へはけして広がっていきませんから。

 「自分は何もできない。何も役に立たない」と思う日は、慈雲寺に来てください。一緒に枝払いでもしませんか?慈雲寺ではたくさん役に立てることがありますよ!

◎今日の写真は京都の嵐山の竹林です。