いつも鋭いコメントや、なかなか答えにくい質問をして、私を叱咤激励(?)して下さるももはなさんが、前回のブログに下のコメントをして下さいました。
「住職、またちょっと教えて下さい。 成仏って何? 仏教的には輪廻せず、仏界で暮らす事かも知れないないけど、 いつもそ生きてる者と楽しくやってる故人は良くないのですか? 」
この質問は、仏教の本質にかかわる大切な質問です。「成仏」の解釈や、成仏への道筋についての説明のしかたは、宗派によってさまざまなので、一般的に答えるのは実は難しい。しかし、浄土系の「他力」+「極楽」の教えからすると、答えはとてもスッキリしています。すっきりのお答えはPart2で。
その前に、仏教の基本的な考え方を押さえておきましょう。
仏教は「成仏」すなわち、仏になることを目指す宗教です。
すべての衆生は六道を繰り返し輪廻していきます。生まれては死に、死んでは六道のどこかの世界へまた生まれていくのです。
しかし、仏教はどこに生まれても、そこに生きることは「苦」であるという認識が最も基本的な考えです。地獄に生まれてしまえばもちろんのことですが、天人に生まれてもやがて「天人五衰」と呼ばれる衰えがやってきます。
悟りを開き、この輪廻転生の繰り返しから離れたのが「覚者」。悟りに目覚めた人、すなわち仏です。死ななければ「仏」になれないわけでもないし、死んだ人が全て「仏」になるわけでもありません。
お釈迦様は自力で修行し、悟りを開かれました。そして、それぞれの人の能力や環境に合わせて、悟りへの道を8万4000種類も説かれたと言われています。
六道の中で、仏の教えに直接触れることができるのは人間と天人だけ。今、私たちは有難いことに人間に生まれ、仏教に出会えうことができたのですから、悟りへの修行に邁進していくべきでしょう・・・・・
というのが、自力で悟りを開くために日々修行を積んでいる方々の道筋です。
お釈迦様の時代に生まれ合わせ、お釈迦さまから直接教えを聞いた人々は、その場で悟りを開いた人も少なくないとお経には説かれています。一度に500人の聴衆がその場で悟りを開いたこともあるそうです。
しかし、お釈迦様が「人間」の肉体を離れ大涅槃に入られると、人間の能力も環境も次第に劣化していくというのが、仏教のもう一つの基本的な考え方です。
現在、私たちは「末法」という時代に生きています。人間の能力、指導者としての僧侶の能力、環境、その全てが劣悪だと、仏教は考えます。そのような時代に生きる私たちは、自分の力で「成仏」できるのでしょうか?
肉体的な「死」によって分けられてしまった、「生者」と「死者」は、もう二度とあうことはできないのでしょうか?
お盆にならなければ家族の所に帰ってこられないのでしょうか?
Part2 では浄土教における「成仏」の考え方をお話します。
◎今日の写真は極楽世界を描いた「当麻曼荼羅」です。