すべての衆生、生きとし生けるものは六道の間を繰り返し輪廻していく・・・という信仰はインドに古代から伝わるもので、仏教でもその考えを受け入れました。人がなくなると、最長で49日の間に次に輪廻転生していくところが決まると考えられています。
しかし、仏教はこの輪廻を「苦の繰り返し」と考えます。地獄はもちろんのこと、たとえ天人に生まれたとしても、六道のどこで生きても、生きることは「苦」だととらえるのです。仏教は、お釈迦様がお示しになった修行を積み重ねることによって悟りを得、この輪廻から抜け出ることを最終的な目的としています。
しかし、末法の時代に生きる私たちは、自力で悟りを得られるのはほぼ不可能といってよいでしょう。それを憐れんだ阿弥陀仏が極楽という「ごく楽に修行のできる場」を用意して下さったのです。阿弥陀仏は何の条件もつけずに、極楽へ私たちを迎え取って下さいます。
では、浄土宗の鎮西派、西山派、浄土真宗、時宗など、いわゆる「浄土系」といわれる宗派の人々は、「中陰」をどう受け止めているのでしょうか?
同じ浄土系でも宗派によって「中陰」のとらえ方は一様ではありませんが、「中陰の法要は不要」とはっきり言っている宗派はないようです。
以前、このブログにも書きましたが、浄土系の宗派の中でも、「往生の正因」、つまり何によって私たちの極楽往生が起こるのかについての考え方が、それぞれ特徴があります。
例えば、京都の知恩院を総本山とする浄土宗鎮西派では、「念仏正因」を説きます。阿弥陀仏が衆生の往生のために、念仏を選んでくださったのだから、真剣に、できるだけ多く念仏することに意義があるとする教えです。
この考え方からすると、念仏をたくさんすることに意味があるのですから、中陰の間、できるだけたくさんのお念仏を称えて亡くなった人に廻向していくことに、大きな意味があるように思えます。
一方、浄土真宗では、往生の正因は信心にあると教えています。阿弥陀仏の救いを深く信じることによって救われていくのですから、生前にしっかり信仰の導きにあっていることが大切です。ですから、浄土真宗では、「聞法」、つまり僧侶のお説教を聴いて、信仰心を養っていくことが大切です。「聞法」を通して、阿弥陀仏から信仰をいただくと言っても良いでしょう。
信心をいただいている人は、息を引き取ると同時に、ただちに極楽へ往生するのですから、中陰の法要は「往生のためには不要」といって良いでしょう。しかし、中陰や、その後の法要は、遺族や縁者たちが、僧侶のお説教を聴き、仏語であるお経を聞かせてもらう大切な機会です。仏様から私たちが廻向されていると考えても良いでしょう。(つづく)