養寿寺で拝ませていただいた『法然上人絵伝』。法然上人が善導大師と夢の中で出会う場面。
先日、西尾市の養寿寺で、各宗派の若手説教師のトップレベルの方々が一同に会する、なんとも贅沢なイベントがありました。
主催者の養寿寺の御住職から演者たちへのリクエストは、「それぞれの宗派の特徴が感じられるお説教を」ということだったそうです。各自20分ほどの短い時間に、各宗派の教えのエッセンスを聞くことができたのです。
それぞれの方が、開口一番、ギュッと聴衆の耳と心をつかむようなお話をされたのには、「おお!さすがだなぁ」と感心しました。自分のお説教にもアレンジさせてもらえそうなお話も多く、説教師としての私にとっても、なんとも「お得」でした。
たくさん、印象に残ったお話があったのですが、中でも天台宗の小林恵俊上人が「天台宗で一番大事な教えは『すべての人に仏の種がある』ということです」という言葉でした。「仏の種」とは仏性のことと思われます。
この種が煩悩という埃をかぶっているのが私たちの現状ということでしょう。この埃を払って、仏性を輝く玉に磨きあげるのが修行。人間にはその可能性があるという、ちょっと元気や希望がわいてくるお話でした。
しかし、その直後に説教壇に上がった、浄土真宗本願寺派の舟川智也上人は、「(私たちは)どこまで行っても”泥団子”。磨けば少しは表面が光るかもしれないが、あくまでも本質は泥団子」と、穏やかでも不思議な迫力のある話し方でか語りかけました。
う~~ん・・・これが親鸞聖人の強調された「凡夫の自覚」ということでしょうか?天台宗の「自力で頑張って、埃を取り払おう」という励ましも心惹かれるし、徹底した凡夫の自覚があってこそ、阿弥陀仏の救いのありがたさがわかるというのもいいなぁ。
もちろん、私も親鸞様と同じ(同列に並べるのは失礼過ぎるか・・・)法然上人の教えを受け継ぐ者ですから、泥団子の自覚の大切さ、泥団子でも救われるという喜びを日々感じています。
天台宗と真宗のお説教を続けて聞かせてもらえて、「仏性」や「凡夫」という自分の信仰の基盤となる教えについて改めて考えるきっかけになりました。
いや、なんとも嬉しい、ありがたい一日になりました。(つづく)