慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

キンキラキンのどんぶりはちょっと悲しい

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金色の扇ぐらいならまだまし?

 

 今日は中日文化センタの栄校で「廃仏毀釈」についての講義を受けてきました。神仏習合から廃仏毀釈にいたる過程にはとても興味があります。内容については、講義が終わってから詳しくお話したいと思っています。

 

 私はこのような機会でないと、めったに名古屋の繁華街に出ていくことはありません。名古屋に来て以来、ずっと「ほぼ引きこもり状態」が続いています。

 実はカナダにいるときも、年に250日近く取材で北米各地をうろうろしていたのですが、自宅のあったバンクーバーへ戻ってくると、めったに家から出ませんでした。歩いて5分もしないところにスーパーを含む小さなショッピングモールがあったので、そこに買い物に行き、向かい側の図書館へ行くくらい。

 自宅にいるときは「じっとしている」というのが習性になっているのかも?

 

 というわけで久しぶりに栄に出ていったのですが、講義が終わった後の行動もほぼルーティーン。本屋さんと古本屋をめぐり、100均の大型店舗で買い物。その100均のあるビルの地下にあるきしめん専門店で早めの夕食を食べて帰宅・・・毎回変化無し。

 ま、周辺のきらびやかなブランドショップのウインドゥディスプレーを眺めるのは嫌いではありませんが・・・

 ところで、今日、そのお気に入りのきしめん屋さんで、ハッと気が付いたことがあります。ここの本店はけっこう長く続いている老舗のようですが、なぜか食器が全部金色。何を表現したくて、金色が選ばれているのか知りませんが、印象的であることは確かです。

 きしめん自体は無論美味しいですし、定食にすると注文できるアジフライがいつもとてもおいしい・・・しかし、今日、気が付いてしまいました。開店からしばらくたったせいか、この金色の食器が少しずつ剥げてきているのです。まだ、よーく見ると気が付くという程度ですが、キンキラキンだけに、劣化がほの見えるとかえって哀れな感じです。

 そのことに気が付いてしまうと、この店、いつも空いてるなぁ・・・ま、夕食には早い時間だから仕方ないのかもしれませんが、隣のスパゲティのには行列ができてたし・・・なんて、思って店内を見渡したら、またしても気が付いてしまいました。

 明らかにその店の店員と思われる人が、客席のテーブルで休憩しているのです。最後にはテーブルで居眠りを始めたくらい・・・・

 う~~~ん・・・・これは・・・・このお店、長くはもたないかもしれないなぁ。

 

 金の器は、派手であればあるだけ、華やかに見えれば見えるだけ、劣化が始まれば悲しい。そして、全てのものは劣化をまぬがれることはできません。諸行無常・・・を感じたと言っては大げさかもしれませんが、客足の遠のいた店には、店員も劣化していくということでしょう。これもなんだか哀しい。

 

 慈雲寺の属する浄土宗西山派の流祖証空上人は「白木の念仏」ということをしばしばおっしゃいました。

 私たちは、念仏をついつい余計なもので彩ってしまいがちです。回数の多さを誇ったり、ご利益を願ったり、熱心に念仏しているところを人に見られて尊敬を受けたい、良い声だと褒められたい・・・などなど、さまざまなキラキラとした雑念で念仏を彩ろうとしています。

 しかし、証空上人は、ただただ阿弥陀仏に願われている身の上であることを喜び、嬉しさのあまり口からこぼれおちてくるような、「彩り無しの白木の念仏」を勧めてくださっているのです。