中断していた西国三十三カ所観音巡礼を再開しました。前回のこのブログでは、私にとっての巡礼ツアーの善し悪しは同行して下さる先達さん次第とお話しますた。
今月参加したツアーの先達さんは、物腰の柔らかな中年女性で、もう10年以上先達としてツアーに参加されているとのことでした。
訪れた寺院では、お勤めの導師も丁寧でしたし、今までで一番詳しく境内のあれこれを解説して下さる方でした。お参りのありがたみが深まる気がしたほどです。
ただ一つ、どうも気になることがありました。この先達さまが観音菩薩を「仏さま」と何度も呼んでいたことです。もちろん、観音菩薩は、やがて如来になられることが確定している方ですから、「仏」とお呼びしても間違いではないでしょうが、ツアーのどこかで「菩薩とはなにか」とか「如来と菩薩の違い」などについて、少しお話していただければ、巡礼の体験により深みが出たのではないかと思いました。
菩薩とは?
菩薩とは、ボーディ・サットヴァ(梵: बोधिसत्त्व, bodhisattva, 巴: bodhisatta) の音訳である菩提薩埵(ぼだいさった)を略した言葉です。
その意味は、菩提(悟り)を求める衆生(薩埵)のことで、原始仏教の時代には、悟りを開く前、修行中のお釈迦さまのことだけを菩薩といったようです。しかし、大乗仏教では出家者だけではなく、在家者を含んで広く「慈悲」の行いを実践するものを示す言葉として使われています。仏の示した教えの道を歩もうと志して、慈悲行を行う者は皆な「菩薩」なのです。
では、観音さまは仏なのでしょうか?観音菩薩や勢至菩薩、弥勒菩薩など、信仰の対象になっている菩薩さまは、修行が非常に進んでいる菩薩さまです。悟りを開くことに集中すれば、すぐにでも「成仏」なさる方々ですが、あえて自分の悟りの完成を先延ばしにして、私たちを救う為に力を尽くして下さって居る方です。
「仏と人と中間に位置する」と考えると良いでしょう。
観音さまなどのお像を見ると、ほとんどが有髪で、さまざまな飾りを身に纏った「世俗」のお姿です。阿弥陀さまやお釈迦さまなどの「如来」、「仏」は、反対にとてもシンプル。飾りなどは付けていらっしゃいません。
このお姿からも、観音さまを「仏」とお呼びするのは正確とは言えません。もちろん、私たちよりも遙かに仏さまに近い方ですから、私たちを救う力、信仰に目覚めさせてくださる力のある頼りになる菩薩さまなのです。(つづく)