仏様に花を供えるのは、僧侶としての役割の中で嬉しいことのひとつです。池坊の発祥である六角堂の僧侶たちのように毎朝工夫をこらした仏花をお供えできたら、どんなに幸せなことでしょう。でも、それはなかなか難しい・・・裏の空き地で花を育てて、お供えするのが理想ですが。
今月は、庭に咲いた花をお供えしてくださる方がいたり、法事がいくつかあったり(伝統的な意味での檀家のない慈雲寺には珍しいことです)して、お花が豊富!毎朝、お水を替えたり、花をアレンジしなおしたり楽しい日々が続いています。
花を仏に供えるのは、仏様やご先祖さまに美しい花を見ていただくと同時に、花の命の儚さを知って、仏の教えを心に刻むためのものです。けして、仏壇の見栄えを良くするためのものではありません。
ですから造花をお供えするのはお勧めしません。最近は、本物の花を加工して「けして枯れない花」にしたものまでありますが、これでは仏花の意味は全く失われてしまします。
この加工した花は、見た目は本物そっくりで綺麗です。これを仏壇に飾っておけば、「いつもきれいな花をお供えしている」という状態を取り繕うことはできるでしょう。しかし、これでは本来の意味は全く失われて、ただの「見栄」になってしまいます。
生花をお供えし、毎日水を替えたり、花の様子を見たりしてお世話することに意味があるのです。美しい花が枯れていくのを哀れむ気持ちが、仏様の教えにつながっていきます。
確かに、これから夏場になれば、花をしばしば変えるのは経済的にも負担になります。慈雲寺でも、今まで仏像の両側に供えていた花瓶を片側だけにしてコストを削減しました。今月は花がたくさんあるので、両側に花瓶が置けるのが嬉しい!
それでも、造花を供えるなら、雑草の花を供える方が良いのではないでしょうか?造花を供えるのは何のためなのか、一度ゆっくり考えてみましょう。