慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は3月17日(日)10時より、お彼岸の法要も兼ねて行います。テーマは「法然上人が開いた『浄土門』とは何だったのか?その2」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

恩人を送る Part 3 中陰法要に癒される

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京都の今熊野観音寺で見た菩提樹菩提樹の葉がつくる木陰はとてもやさしげです。

 

 先月遷化(亡くなること)されたM尼の中陰の法要で、このところ毎週名古屋市の中心部まで出かけています。慈雲寺から、Mさんが住職をなさっていたお寺まで行くには一時間に一本のバスに乗り、地下鉄に乗り換えて、さらに10分以上歩きます。正直言って、時間的にも身体的にも負担があります。

 しかし、お参りをさせていただく度に、不思議な癒しの体験をしています。M尼とは、法類という親戚付き合いのような関係でしたので、お会いするたびにたわいのないお話をしたり、お寺の運営について教えていただいたりしていました。

 年齢もそれほど離れていませんから、Mさんの死は私にとっても、さまざまなことを考えさせられるきっかけとなっています。

 七日ごとにMさんのお寺にお参りし、跡継ぎの若い僧侶の方や、Mさんの姉妹や甥の方々と会ってお話をしていると、中陰という宗教慣習は、亡くなった方への追善はもちろんですが、残された縁者の癒しの意味が大きいと思われます。

 浄土真宗では、臨終と同時に阿弥陀仏の来迎があるのだから、中陰は故人を通して仏法とのつながりを深める「求法」の機会ととらえています。中間の期間などなく、即極楽へ行くのですね。

 これは真宗に限らす、法然上人の弟子たちにはすべて共通している認識ですが、「追善」を重視するか、「求法の機会」を重視するかで解釈に違いがあるようです。

 

 私はM尼の中陰を通して、自分が癒されていくのを感じます。僧侶であっても生老病死は苦しみだし、不安を掻き立てるものです。近しい人の死は故人との別れの哀しみだけではなく、「自分」の命のあやうさにも直面させられるものです。

 そのようなやや不安定な日々に、七日ごとに仏様の前で『阿弥陀経』を読誦して仏の教えを改めて思い、短い日々でも刻々と変化する境内の風景やお寺を守る人々の願いなどに触れることで、自らもさまざまな気づきがあります。

 

 家族や親戚、ご近所の人や友人が毎週集まってくれたら、残された人たちはどれほど慰めになるでしょう。

 哀しみで日常生活も滞りがちになるかもしれませんが、少なくとも毎週、掃除をし、花を替え、人と話す・・・これも癒しのプロセスに大きな役割となるでしょう。

 集まってくる人も、遺族の心身の様子を見て、何か力になれることに気づくことができるでしょうし、なにより自分の哀しみの癒しになる。

 

 私は、M尼が残していってくれたものを毎週、毎週、大切に育てているような気がします。