76年前の今日、広島に原子爆弾が投下された日です。毎年放送される原爆関連の特集番組もなく、テレビはオリンピックの「感動」を撒き散らしていました。
原爆の犠牲者やその遺族の方々のために、短い法要をさせてもらったのですが、ほんの15分ほどの読経の間にも、汗がつぎつぎと流れてきました。さぞ、あの日の広島も暑かったことでしょう。
コロナ禍は収束のめどが見えてこないどころか、事態は予想しにくい方向へ進んでいるように思えます。
オリンピックの報道が「感動した」とか「選手の活躍から勇気をもらった」と叫ぶたびに、とても空しい気持ちになります。
選手たちが命がけで戦う姿は感動を呼ぶ・・・・本当でしょうか?毎日のラッシュアワーに電車に乗っている人たちも命がけでしょうに。
コロナ禍で仕事を失った人、隔離で家族に会えなかった人、入院したまま亡くなって死に目にも会えないし、葬儀もできなかった人・・・・さまざまな悲しみを「オリンピックの感動」は癒してくれるのでしょうか?
私たちは76年前、誤った判断で戦争を続け、原爆の被災者を含めて、多くの犠牲者を出してしまいました。無理やりオリンピックを強行した流れと共通するものはないでしょうか?
自分の国に誇りを持つことは良いことです。私も40年のカナダ暮らしから日本に戻ったことをうれしく思っているし、日本で日本人として生きられることを嬉しく、誇りに思っています。
しかし、その気持ちと、「国威発揚」に踊らさせれて空しい「感動」に酔うことはまったく別のことだと思います。
今日は金メダルの数より、原爆の犠牲者、犠牲になった街や歴史を思って祈る一日でした。