日本に戻り、住職になってから今までとは違う目でいろいろなものを見るようになりました。気になる言葉や事項も大きな変化がありました。
その気になる言葉の一つが「終活」です。この言葉は、今から10年前ぐらいから一般に知られるようになったそうです。
仏教はその教えの根底に「死」があります。仏教は、誰も避けることはできない「生老病死」という苦しみから、いかに脱却し、人生をいかに穏やかに生ききるかについての教えだからです。
週刊ポストのキャッチフレーズによれば、「終活」とは「幸せに死を迎える準備」のことのようです。しかし、その内容を見ると、お墓やお骨の始末の仕方、お値打ちな葬儀の選びから、”めんどうな”仏事の避け方、痛くない死に方、老後の資金の確保などなど・・・確かに一見必要なことのようですが、その前に考えておくことはないのでしょうか?
例えば「葬儀やお墓のことで遺族に迷惑をかけたくない」という方には、「そうですか・・・あなたは、そんなに法事で家族、親戚が集まるのが嫌だったのですか?お墓参りが苦痛だったのですか?それはなぜですか?」と聞いてみたいのです。
自分の葬儀や遺骨の始末の仕方まで、自分の思い通りにしようと思うのは、本当に未来の遺族への気遣い、思いやりですか?それはあなたの執着でしかないのではありませんか?
遺産の分け方、葬儀の仕方、遺骨の行方などについて、個と細かく「始末」することは、一見潔い死の迎え方のようですが、本当は死への恐怖を紛らわせているだけではありませんか?
そんな疑問が次々と湧いてきます。慈雲寺での月例法話会の時のテーマとしても取り上げていますし、このブログでも時々書いているのですが・・・先日、「中日文化センターでセミナーをしませんか?」というお声がけをいただいたので、終活をテーマにお話させていただくことにしました。