トルコ・シリアでの大地震のニュースに心を痛めています。同じ「地震国」の日本が率先して援助活動を行っていきたいものです。
さて、こうした災害はしばしば「地獄」に喩えられます。今の私たち日本人が持っている「地獄」や「極楽」のイメージは、平安時代に生きた僧侶源信の書いた『往生要集』という本が基になっていると言われています。
源信は、驚くほどの執拗さでさまざまな経典を読み込み、そこに説かれている地獄の様相や極楽の姿を描いていきます。今なら、大蔵経を検索して関連した所を読み込むなんてこともできるかもしれませんが、源信は経典を一つずつ読んで探していったのですから、もの凄いエネルギーです。
著作は大部のもので、原文を読むのはなかなか大変ですが、幸いなことに法蔵館から『新訳往生要集』という現代語訳も出ています。
第一章はいきなり地獄です。地獄の様相がことこまかく分類sれて書かれています。地獄のカタログ、ガイド本という感じ。そして、そこに落ちた人がどのような行為の結果、これこれの地獄で苦しんでいる・・・という描かれ方をしています。生前、自らが作った悪しき業の結果というわけです。
この『往生要集』としばしば比べられるのがダンテの『神曲』です。ここにはキリスト教的な死後の世界が描かれています。ここには地獄と天国との間に「煉獄」という場が述べられています。現在では、煉獄に関する教えを説くのはキリスト教各派の中でもカトリックだけです。
この「煉獄」は。「罪を清めんとする人が、祈りながら苦行に殉じている」場です。キリスト教では、いったん地獄に落ちてしまえば、そこから出てくることはできません。しかし、地獄に転落するほどの罪でない人は、煉獄で苦行して天国へ入れてもらえる可能性もあるのです。ちなみに、ダンテはギリシャ哲学者のプラトンも煉獄にいると書いています。
仏教学者の中村元先生は、この「煉獄」は仏教の「地獄」に近いのではとおっしゃっています。確かに、仏教は地獄に落ちた人にも、罪の償えば救済の機会がやってきます。地獄の鬼ですら、永遠に鬼のままではないのです。
『往生要集』も『神曲』もなかなか手応えのある本ですが、比べながら少しずつ読んでいくと想像の翼が広がって面白いです。ただし、寝る前に読むのはおすすめしません。翼が広がりすぎて、けっこうヘビーな夢を見てしまうかも?