慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は3月17日(日)10時より、お彼岸の法要も兼ねて行います。テーマは「法然上人が開いた『浄土門』とは何だったのか?その2」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

末法の時代に生きる私たちは皆な”根暗”?! Part 1

熊野で見た清めの炎。私たちの心の闇を照らしてくれる?

 

 表の顔は明るく、のんびりしてそうに見えても、心の奥に暗いものを抱えている人を「根暗」と呼ぶのがテレビなどで流行ったのはいつのことだったでしょう?最近あまり聞かないように思いますが、もう忘れられた流行語なのか、それとも日常語の中に埋没するほど「普通の言葉」になって、私たちが気にならなくなったのか・・・・

 

 仏教では、誰の心にも深い闇があると教えています。煩悩はこの闇の中から生まれ、私たちを苦しめています。この場所を「無明」、光のささない真っ暗なところと呼びます。

 今、私たちは、残念ながら末法の時代に生きています。人々の認識力も、思考力もいちじるしく減退し、性格はもちろん、体力も気力も正しい修行を行える人は皆無に等しい。何より、教えを伝える僧侶の能力が落ちている・・・自然環境も社会環境も最悪・・・というのが末法の時代です。毎日のニュースを見ていると、「世も末だ」と確かに思えてきますね。

 しかし、まだ幸いまだ「無法」の時代ではないので、ほんのわずかながら仏の教えは伝わっているという状況です。

 

 末法の時代に生きる私たちは、どれほど優秀と言われる人でも、「凡夫」であることには大した違いはありません。お釈迦様が生きていた時代に、直接教えを受けることができた人々はその場で悟りを開いた者も多かったそうですが・・・・次に仏から直接教えを受けるチャンスが巡ってくるのは、今、兜率天で修行中の弥勒菩薩如来となって下生してくる56億年以上後のことです。

 ミイラになって(即身成仏の修行をして深い禅定に入って)弥勒下生を待っている人もいるのですが・・・・

 

 さて、「凡夫とは何か?」というと、一番の特徴は「心に無明の闇を抱えている」ということです。つまり、末法の時代に生きる私たちは、ほぼ例外なく「根暗」なのです。

 そんなことを言うと、仏教は「生きることは苦だ」と言ったり、「全ての凡夫は闇を抱えている」と言ったり、ずいぶん暗い宗教のように思われそうですが、それは違います!

 仏教は、その心の闇をしっかり見つめることによって、無明の闇に光を取り込み、心の中を明るくしていくための教えなのです。(つづく)